とっぷりと日が暮れた駐車場には翌日に武尊に昇ろうとしている人の車が6台。夕食をとりながら長い夜をすごそうとしていた。また後から降りてきた3人、2台の車が出て行った。降りてきてすぐに運転する気力もたいしたものだ。 ほとんどの登山者は今は自家用車で林道の終点まで来て、朝早く出立して戻ってくる。連休中ともなると3~4の山をはしごするらしい。
私は登山は、縦走、それもできるだけ長い尾根を歩いて登りたい。その山塊の一つでも多くのピークを歩いてみたいと思う。登って来た道を戻るのがもったいない、というのではない。それも一つの登山であることは間違いがない。特に信仰登山の場合は。しかし文化としての山の周辺に浸るという行為では、歩きながら民家のたたずまい、畑や田の様子、神社や寺の位置する場所・建物の構造、土地の地勢をできるだけ味わいたいと思っている。
社会学、民俗学の勉強をするのが目的ではないし、人と語り合ったりするのは好きではないので、ただひたすら眺める、見つめることに徹している。見るだけでも植生・地勢・農作物などからいろいろなことを想像する。無論外れていること、頓珍漢なこともあるだろうが、それはそれで楽しい。
それは車で山を渡り歩くように移動するのでは味わえないと、勝手に思っている。だからできるだけ歩きたい。
そして地域の郷土史博物館、資料館などは可能な範囲で覗いてみるのも好きだ。しかしなかなか時間の制約で叶わないのが悲しい。
武尊神社はこの周辺いくつもある。前武尊でも武尊でも、そして旭小屋でも白い紙をつけた御幣が盛んに飾られていた。穂高岳も昔はその形から御幣岳と言われていたそうだ。武尊山と穂高岳、ホタカは穂のようにすっきりと高いことをイメージした山名、と以前教わった気がする。すると武尊山も御幣岳の異名があったかもしれないし、武尊神社に御幣が多く飾られることがつながるかもしれない。
江戸時代・明治時代の初期は信仰登山が確かにすごかったらしいと思う。あのヤマトタケルの像を人が担いでのぼったというのだから、信仰の力にほとほと圧倒される。信仰ということを私はとてもできないが、それをやったという事実は事実だ。同時にこれが人間社会に対する強制力として働いたとしたら、空恐ろしいことになると恐怖に駆られる。
ホタカ山とヤマトタケルを結びつけた武尊標記となったのは江戸時代、神社名が武尊になったのは明治時代らしいので、それ以前はどのような標記であったのだろうか。もともと音が先にあって、後から意味を牽強付会的につけたのが漢字表記だろうから、漢字地名は漢字にとらわれないように理解すべきとは思うが、私のように素人に近い人間にはなかなかできることではない。
地名学というのがあるが、真に学問的なものであるならばそういうものもいくつか読んで勉強してみたいとは思っている。
こんなことを考えながら、暗くなった道をこれ以上歩くわけにも行かず、水上町のタクシーを呼んで、藤原湖の脇を通って、妙高高原駅のそばの「真沢(さねざわ)の森」というみなかみ町営温泉まで、12000円余。上限8000円位と思っていたので、これは予想が外れてギャフン。しかし温泉は良かった。
妻は車酔いで温泉もそこそこでベンチでダウン。私だけが温泉と生地ビール二杯と五目釜飯でご満悦。21時48分の最終東京行きで帰路につく。
秋の初めの山の彩りを堪能できた山行となった。しかし右ひざについては今後の山行に耐えられるか不安が増した。
私は登山は、縦走、それもできるだけ長い尾根を歩いて登りたい。その山塊の一つでも多くのピークを歩いてみたいと思う。登って来た道を戻るのがもったいない、というのではない。それも一つの登山であることは間違いがない。特に信仰登山の場合は。しかし文化としての山の周辺に浸るという行為では、歩きながら民家のたたずまい、畑や田の様子、神社や寺の位置する場所・建物の構造、土地の地勢をできるだけ味わいたいと思っている。
社会学、民俗学の勉強をするのが目的ではないし、人と語り合ったりするのは好きではないので、ただひたすら眺める、見つめることに徹している。見るだけでも植生・地勢・農作物などからいろいろなことを想像する。無論外れていること、頓珍漢なこともあるだろうが、それはそれで楽しい。
それは車で山を渡り歩くように移動するのでは味わえないと、勝手に思っている。だからできるだけ歩きたい。
そして地域の郷土史博物館、資料館などは可能な範囲で覗いてみるのも好きだ。しかしなかなか時間の制約で叶わないのが悲しい。
武尊神社はこの周辺いくつもある。前武尊でも武尊でも、そして旭小屋でも白い紙をつけた御幣が盛んに飾られていた。穂高岳も昔はその形から御幣岳と言われていたそうだ。武尊山と穂高岳、ホタカは穂のようにすっきりと高いことをイメージした山名、と以前教わった気がする。すると武尊山も御幣岳の異名があったかもしれないし、武尊神社に御幣が多く飾られることがつながるかもしれない。
江戸時代・明治時代の初期は信仰登山が確かにすごかったらしいと思う。あのヤマトタケルの像を人が担いでのぼったというのだから、信仰の力にほとほと圧倒される。信仰ということを私はとてもできないが、それをやったという事実は事実だ。同時にこれが人間社会に対する強制力として働いたとしたら、空恐ろしいことになると恐怖に駆られる。
ホタカ山とヤマトタケルを結びつけた武尊標記となったのは江戸時代、神社名が武尊になったのは明治時代らしいので、それ以前はどのような標記であったのだろうか。もともと音が先にあって、後から意味を牽強付会的につけたのが漢字表記だろうから、漢字地名は漢字にとらわれないように理解すべきとは思うが、私のように素人に近い人間にはなかなかできることではない。
地名学というのがあるが、真に学問的なものであるならばそういうものもいくつか読んで勉強してみたいとは思っている。
こんなことを考えながら、暗くなった道をこれ以上歩くわけにも行かず、水上町のタクシーを呼んで、藤原湖の脇を通って、妙高高原駅のそばの「真沢(さねざわ)の森」というみなかみ町営温泉まで、12000円余。上限8000円位と思っていたので、これは予想が外れてギャフン。しかし温泉は良かった。
妻は車酔いで温泉もそこそこでベンチでダウン。私だけが温泉と生地ビール二杯と五目釜飯でご満悦。21時48分の最終東京行きで帰路につく。
秋の初めの山の彩りを堪能できた山行となった。しかし右ひざについては今後の山行に耐えられるか不安が増した。