Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

墓参り

2009年09月24日 00時04分14秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 23日は墓参り。カンカン照りでもなく、風もなく、連休最終日としてはのんびり墓参するにはよい日和であった。
 母親の姉妹80代3名をつれて多磨霊園へ。三人とも歩けるから電車で通えていいようなものの、誰かが歩けなくなるとどうしようかと、車も免許も持たない私は時々悩んでしまう。しかしそんなことを先走りして悲観してもしょうがないので、とりあえず無事に3人がそろって墓参ができたことを喜ぶこととしよう。
 広大な霊園の中、個性的な墓を眺めながらそぞろ歩くのはそれなりに楽しい。「著名人」も多く埋葬されており、墓めぐりを楽しむ団体もある。どうもそのような人々は集団で歩くのがお好きなようで、個人でめぐる方は少ない。人について歩くだけで、かつ関係のないおしゃべりに興じているのでは、楽しみも半減、記憶にも残らないだろうに、と余計な半畳も入れたくなる。
 私も親族の墓の周囲で幾人かの著名人をさがしたことがある。1人で、または妻と。集団でのめぐるなんてごめん蒙りたい。それぞれ個人の個性的な墓もあれば、直系親族を中心とした「○○家の墓」におさまってしまって、特定の個人の墓とはわかりにくい方までいろいろ。
 面白いのは三島由紀夫、竹内好、岡本一平・かの子・太郎がすぐそばに眠っていること。もしあの世があるとして、同じ町内会で仲良くしているのだろうか?
 しかし日本の墓は不思議だ。個人の墓は少ない。江戸時代の名残でもあろうし、移動の少ない農村での一族の墓の延長とも言えよう。
 わが墓は父から譲られたもので他の墓と同じに「○○家の墓」。しかし宗派までは統一していない。
 浄土宗・真宗・日蓮宗・キリスト教と、見るとすぐわかるしつらえだ。もし一家の中に、違う宗旨の人がいたらどうするのだろう。墓石の上や表面にたとえば十字架がかかっていて、その墓石したが納骨室になっているところに非キリスト者が入ることは許されるのだろうか。また入ることに抵抗はないのだろうか。
 「死ねば死に切り」、どうでも良いと私は思っているが、そういう人ばかりではなかろう。特に上記の宗教・宗派は墓石で統一しようとする傾向が強いのではなかろうか。キリスト教というところも‥。
 こういう無神経さの延長に、靖国の思想があるのかもしれない。
 私の父の眠る墓には、キリスト者も曹洞宗も神道もいる。それぞれの生前の名の上に「戒名」「洗礼名」などの「死後の名」が書かれている。そんな墓石と墓誌をつくった父親にはそれなりの敬意を表さなくてはいけないだろう。
 さて昨年、私の畏友が同じ多磨霊園に葬られた。時々はその墓にいって思い出のよすがにするのも悪くはないと思っている。
連休も終了、日が昇ればいつもの日常にもどる。