一昨日から来月20日まで、平日の夜は手帳にビッシリ予定が書き込まれている。毎日帰宅が23時を越す予定。
これから4月の連休まで例年のとおり7ヵ月間の長丁場の始まりでもある。中だるみはあるものの(なければ体がもたない)肉体と精神にはかなりのストレスだろう。毎年のこととはいえ、うんざり。
多くの人間は人との摩擦を、表面からは見えない地中のマグマの熱のように深く溜め込んでいる。そのごくごく一部が時として小噴火や不規則な間歇泉のように噴出する。多くは自己崩壊に至らない範囲で。
大半の熱は地熱や温泉のようにじわじわと染み出て静かに解放される。そのことは人の生にとっては大いなるプラスの弾みだ。きっとストレスそのものがない人生は平凡で退屈で、生への渇望自体が湧いてこない人生であろう。 反対に強度の精神的・肉体的な摩擦や付加は人生をクラッシュさせる要因でもあろう。
強度の摩擦や付加を感じると、誰もが「自分以外の人はいつも平然とした顔でストレスを感じていないのではないか」と、他人を羨望する。会議で自分のいいたいことだけをさっさといって、人の意見を聞かない人間がいる。そんな人間、意外とあとでボソリと、鎧に身を隠した小心な人間であることが暴露されることもある。
例えばマスコミを賑わす政治家。毎日24時間365日でも足りないくらいのはずだが、よくも身が持つなぁと感心する。政治思想とは別の次元で。その一方で追求されると、意外ともろく崩れ去る例を多く見る。犯罪がらみで‥。
私はこの間歇泉のような熱の噴出の押さえ込みに毎日悶々としている。一つのことに長い間集中すると、精神的に大きな負荷、疲労感を感じるのは私だけではないと思う。少なくとも三つから四つくらいのことを順繰りに、三つ編み・四つ編みのようにラセン的に織っていくのが、私には自然な流れだ。気分転換が必要ということだ。
私の場合は、
1)業務とそれに付随する第二の業務、
2)古典文学と、日本の古代史論、俳句の創作、
3)クラシック音楽と和洋の絵画
4)登山と、最古道・旧道のウォーキング
だ。
若いうちは1)でのストレスはさほど感じなかったし、勢いでこなしてきたが50代になったとたんに大きな負荷を感じるようになって来た。特に肉体的に辛くなるのが先行したように思う。
1)の割合を50才が近くなってきたら少しずつ減らしたり、責任を若い人に譲っていくのが多くの人にとっては理想かもしれない。
政治家などに対するマスコミ報道を見ると、政治活動以外の顔を見せることはない。もしそれが事実ならそれは偏った人間でしかない。そんな人間が社会を、人間の生活をよくすることなどありえないだろう。おそらく報道の裏に別の人間の顔(悪い意味でいっているのではない)があるはずだ。
その存在(暴き立てる必要はないが)を前提として報道を見る目を報道を見る側が獲得しないと、日本の政治はよくはならないだろう。
さて「若いうちはガムシャラに、馬車馬のごとくひたすら働かなくては」という気持ちに追われて、いつの間にかここまで来たという実感がある。気がついたら、特に50代はじめの時の業務過多が、今のメタボの原因となったことも確か。
人の所為にするためではないが、体調管理への気力か減退する50代はじめの時期にあの業務過多は、メタボへ拍車となったようだ。
そう、登山へ出立する気力、準備のための気力もずいぶんと減退したように思う。ここらあたりで少し考え直して、生活の建て直しを図りたいものだ。
これから4月の連休まで例年のとおり7ヵ月間の長丁場の始まりでもある。中だるみはあるものの(なければ体がもたない)肉体と精神にはかなりのストレスだろう。毎年のこととはいえ、うんざり。
多くの人間は人との摩擦を、表面からは見えない地中のマグマの熱のように深く溜め込んでいる。そのごくごく一部が時として小噴火や不規則な間歇泉のように噴出する。多くは自己崩壊に至らない範囲で。
大半の熱は地熱や温泉のようにじわじわと染み出て静かに解放される。そのことは人の生にとっては大いなるプラスの弾みだ。きっとストレスそのものがない人生は平凡で退屈で、生への渇望自体が湧いてこない人生であろう。 反対に強度の精神的・肉体的な摩擦や付加は人生をクラッシュさせる要因でもあろう。
強度の摩擦や付加を感じると、誰もが「自分以外の人はいつも平然とした顔でストレスを感じていないのではないか」と、他人を羨望する。会議で自分のいいたいことだけをさっさといって、人の意見を聞かない人間がいる。そんな人間、意外とあとでボソリと、鎧に身を隠した小心な人間であることが暴露されることもある。
例えばマスコミを賑わす政治家。毎日24時間365日でも足りないくらいのはずだが、よくも身が持つなぁと感心する。政治思想とは別の次元で。その一方で追求されると、意外ともろく崩れ去る例を多く見る。犯罪がらみで‥。
私はこの間歇泉のような熱の噴出の押さえ込みに毎日悶々としている。一つのことに長い間集中すると、精神的に大きな負荷、疲労感を感じるのは私だけではないと思う。少なくとも三つから四つくらいのことを順繰りに、三つ編み・四つ編みのようにラセン的に織っていくのが、私には自然な流れだ。気分転換が必要ということだ。
私の場合は、
1)業務とそれに付随する第二の業務、
2)古典文学と、日本の古代史論、俳句の創作、
3)クラシック音楽と和洋の絵画
4)登山と、最古道・旧道のウォーキング
だ。
若いうちは1)でのストレスはさほど感じなかったし、勢いでこなしてきたが50代になったとたんに大きな負荷を感じるようになって来た。特に肉体的に辛くなるのが先行したように思う。
1)の割合を50才が近くなってきたら少しずつ減らしたり、責任を若い人に譲っていくのが多くの人にとっては理想かもしれない。
政治家などに対するマスコミ報道を見ると、政治活動以外の顔を見せることはない。もしそれが事実ならそれは偏った人間でしかない。そんな人間が社会を、人間の生活をよくすることなどありえないだろう。おそらく報道の裏に別の人間の顔(悪い意味でいっているのではない)があるはずだ。
その存在(暴き立てる必要はないが)を前提として報道を見る目を報道を見る側が獲得しないと、日本の政治はよくはならないだろう。
さて「若いうちはガムシャラに、馬車馬のごとくひたすら働かなくては」という気持ちに追われて、いつの間にかここまで来たという実感がある。気がついたら、特に50代はじめの時の業務過多が、今のメタボの原因となったことも確か。
人の所為にするためではないが、体調管理への気力か減退する50代はじめの時期にあの業務過多は、メタボへ拍車となったようだ。
そう、登山へ出立する気力、準備のための気力もずいぶんと減退したように思う。ここらあたりで少し考え直して、生活の建て直しを図りたいものだ。