Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

政治主導ということ

2009年09月25日 01時57分30秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 空は気持ちよく晴れ、雲もまさに秋のうろこ雲。風が少し強めだったが心地よいといえる程度。しかし雨が少なく乾燥しているようで、埃っぽい感じがする。そして彼岸花も大方萎れかけている。
 彼岸花は咲いたときの驚きと、形の記憶、色の鮮やかさが目を引く。しかしどうもこの萎れかけた色・形が気に入らない。黒ずんだ細い糸がてっぺんに絡みついたようで、払い落としたくなる。ついこの黒ずんだ糸を手でつまんで取り除きたくなる。余計なお世話、ではあるが‥。造形の妙も終末期の姿までは考慮されなかったようだ。
 60歳の定年も、「未練たっぷり」「遣り残したことだらけで後輩に迷惑」「組織のダイナミズムを喪失させている」と言われないような引退の仕方を望みたいが、そもそも無理なものなのだろうか。人間どのようにもがいても「やっといなくなってくれた」「遣り残しばかり」といわれるのが当然なのかもしれない。しかし、どこかの市長のように任期途中で、責任を放り出し、残されたものにそれを押し付けて、トンズラするようなことだけはしたくない。
 さて政権交代で政府は大忙し、それにつれてマスコミも右往左往マスコミの身の処し方が情けない。これまで自らを棚に上げて他人ばかりを攻撃してきた。しかしいかに自らは、これまでの特権や既得権益にしがみついていたか、根拠もなく流行り病のようにいわれなく攻撃された者の痛みをもう一度キチンとわが身にひきつけて考え直さなければならないと思う。
 役所の担当官が、政策や政治方針にかかわることを記者会見で述べてしまうことを止めることを、「報道の自由」の制限ととらえてしまう感性、それをどうどうと記者会見で質問してしまう情けなさが、私には到底理解できない。
 さて本題、言葉が輻輳してまちがっているのが「政治家主導」と「政治主導」。これは「官僚」主導と政治主導との違い以上に違う言葉のはずなのに、混同されいる。
 「政治家主導」とは、議論も話し合いもなく、「一方通行」「人の話を聞く気がない」橋下府知事や石原都知事、中田横浜市長のような連中に当てはまる言葉。唯我独尊・専制者の振る舞いである。
 「政治主導」とは、政策や政治方針について、きちんとした議論を政治の場で(国会や党内で、あるいは閣内・閣僚同士で)のコンセンサスを得てから実施することを言うのではないだろうか。あるべき姿は「政治主導」のはずだ。
 「閣内」不一致があるならそれも問題だし、関係する大臣同士での事前すりあわせがなければおかしい。もし個々の大臣が自分の方針を打ち上げ花火のように述べて、回りの様子を伺うのが「政治(家)主導」というのなら、役所の担当官が大臣や政務官を通さずに記者会見で政策にかかわることを観測気球のようにしゃべってしまう「官僚主導」というのと何ら変わらないものである。
 議員自身も、マスコミも大いに混同していないだろうか。そもそも「官僚」主導というのは、政治家が方針を出さずに役所にもたれかかっていたのが原因なのであって、「政治家」が「政治」の場での議論をきちんとしてこなかったことの証である。「官僚」がすべて「悪」なのではなかろう。すべて「官僚が悪い」式の議論はあまりに乱暴であり、政治家とマスコミの自己責任の放棄ではないだろうか。