Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

上弦の半月と宵の明星

2013年12月10日 23時01分57秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 朝からの荒れた天気も夕方には上がった。午前中から時々日も差していたが、夕方には再び雨が降ったようだ。横浜駅の地下街の喫茶店で不覚にも寝入っていたので気がつかなかった。メールで雨の予想のお知らせが着信していた。帰り際に地上に出てみたらなんとなく路面が濡れていたので、メールの内容に間違いはなかったようだ。
 オーロラツアーの件で旅行会社に、パソコンのカスタマイズと納入日の件で家電量販店に出かけて打ち合わせ。そして地下街をブラブラした後16時過ぎに某喫茶店の一番奥に座って不覚にも寝てしまったのだが、実はその時間には妻もこの喫茶店に来たらしい。買い物の帰りに喫茶店の入口近くの席にわずか20分ほどいただけということだが、私のことはまったく目に入らなかったとのこと。(あるいは眠っているのをさいわいに見えないところで寛いでいたのかもしれない)
 私は18時半近くになってあわてて喫茶店を出て、地下鉄で帰宅。帰ってから話をしているうちに喫茶店の話になってびっくりした。
 いつもは歩いて帰るのだが、久しぶりに地下鉄に乗ったため、富士山の見える西側から団地に入って、天頂から西に傾きかけた上弦の月と宵の明星と富士山が直線で並んでいる光景にしばらく見とれた。ところどころに小さな雲が浮かんでいるが、嵐の後の空らしく濃い深い藍色が広がっている。流れ星が見えたような見えないような、しかし気持ちの良い空を見ることができた。

 シベリウスの若い頃の作品を堪能した2日間だったが、ここは久しぶりにシベリウスらしい曲が聴きたくなった。本日はもう遅いので、明日の午前中に時間が出来ればバイオリン協奏曲でもかけてみようかと思う。
 仙台の古い友人をツィッターで見つけて、久しぶりに連絡を取った。彼も昔の同窓の仲間と会っているとのこと。お互いにそのような歳になっているのだろう。



シベリウス「ピアノトリオ全曲演奏会」

2013年12月10日 13時33分09秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨夜の演奏会、プログラムは

1.ブレトーク(舘野泉(シベリウス協会会長)、フォルケ・グラスベック、佐藤まどか)
2.ピアノ・トリオ「ロヴィーサ」(1888年)
3.ビアノ・トリオ(1884年)
4.ピアノ・トリオ「ハフトレスク」(1886年)
5.ピアノ・トリオ「コルポ」(1887年)
(6.ピアノ・トリオ アレグロ(1889年))

 バイオリンは佐藤まどか、チェロはフォルケ・グラスベック、ビアノはタネリ・ツルネン。

 前日のシベリウスの室内楽とおなじく若い頃の作品である。だが、前日はほとんどが家族内での演奏を目的と本当に習作の段階のものも含んでいたが、昨日の第2部の一部の曲と本日の曲は自覚的に作曲家であることを志向した時期の作品と理解できる。
 作曲法を音楽院で正式に学んだのが1887年以降ということだが、独力で作曲法は真剣に学んでいたようだ。これらの曲は当然にも内々のものではなく、独自の音楽表現として意識的に作曲されたものであろうと推察できる。
 シベリウスは1865年生まれだから19歳から23歳位までの作品である。多分人生の暗中模索の時代である。何につけても自分の方向がようやく定まりつつある時代であろう。自分の表現を獲得するための悪戦苦闘の時期なのであろう。
 音楽的な評価は別として、楽曲の構成や完結性への志向は凡庸なものには到底達成できないようなものがある。しかもいかにもシベリウスらしい後年の表現に接することができた。作品としての評価はなくとも、これだけの曲を仕上げるということはすごいことである。
 シベリウスはこの時期の初期の作品を発表することには極めて消極的であったらしい。このビアノ・トリオも「ロヴィーサ」を除いて1982年に遺族が手稿を公開してから公になったものである。「ロヴィーサ」も晩年のシベリウスが目を通してから公開されたらしい。それもそうであろう。家族の前の内々作品はもとより、習作の段階のものまでの公開は表現者にとっても思いはあるであろう。しかしある極めてすぐれた表現者の歴史は、その名誉のためにこそ存在する場合もあり、豊穣な世界が広がっている場合もある。
 最後のアンコール曲は、1988年のピアノ・トリオの翌年にひとつの楽章の草稿として存在していたらしい。これはちょっと込み入りすぎて、美しい旋律もなかったように思えて、感銘は受けなかったが、難しそうな曲であった。
 今回のこの5曲、私は三番目の曲「ハフトレスク」の1、2楽章の旋律が美しいと思った。いかにもシベリウスらしい長い旋律が美しく奏される。3楽章以降はあまりに複雑にガチャガチャとしすぎて、耳には残らなかった。しかしシベリウス調は堪能できたと思う。

 一昨日から、もしも演奏者にインタヴューできるならば聞きたいと思うことを反芻しながら昨日は演奏を聴いていた。
 まず、習作である以上また、若い頃の作品である以上、演奏家としても「ここはまずいんではないか?」「手直しをした方がいいのでは?」というような個所は幾つもあったと思う。これは具体的にどの個所だったのか。そしてそれはどのようにしたらよくなったと思うか、ということである。
 ベートーベンがフランツ・クレメントの、ブラームスがヨアヒムの、チャイコフスキーがイワン・コテック助言を得ながらあの名曲のバイオリン協奏曲を書き上げたように、演奏家としての判断を是非とも聞きたいと感じた。
 シベリウスのバイオリン協奏曲はソリストの助言を求めたということの逸話は聞かないが(シベリウス自身がかなり名手であった)、シベリウスは初稿からの大きな改訂をしており、より完成度を常に高める作曲家であった。初稿の演奏を禁止したりするほどの完璧性を求めることが強かったと聞いている。
 そんなシベリウスの作品だからこそ、「ここがシベリウスらしくない」などの話なども多いに聞きたいものである。
 次に与えられた楽譜から、シベリウスらしい表現にする技量というものをどこで使ったかということも聞きたかった。同じような楽譜でもシベリウスらしい表現の仕方をして、あるいは円熟期や晩年のシベリウスの表現から省みての表現の仕方、ニュアンスのつけ方というのがあったと思う。ここら辺の話しは多いに興味がある。
 またシベリウスの研究者でもある演奏家に聞きたかったこともある。
 それはシベリウスといういわば北欧というヨーロッパの北辺といっては失礼だが、その地域のナショナルな動機を持ち続けた作曲家が、どのように世界的な普遍性を持つ表現者に飛躍しえたのか、その表現は具体的にどのような表現として指摘できるのか、と言うことである。音楽理論の言葉として、また演奏技法上のことを言葉で聞きたいと感じている。

 「言葉」を過剰に求める私のような鑑賞者は邪道なのかもしれないが‥。

冬の雷

2013年12月10日 11時26分07秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 朝起きてみると、妙に暗い。雨が強く降っている。携帯には「神奈川県では大気の状態が不安定で竜巻に注意」との情報が着信していた。強風・波浪・雷注意報が出ている。これだけ竜巻被害が出ているとそのうち「竜巻警報」というのも新設されるかもしれない。そして10時半過ぎには突然に雷が鳴り出した。結構大きな音がして近そうである。残念ながら天気予報が当たった。「残念ながら」といっては気象の予報官には申し訳ない。「予報が正確であったことは喜ばしいが、残念ながら歓迎したくない天気」という表現の省略形として理解して欲しい。
 今日は久しぶりに予定はない。午後からは天候が回復し温かいとの予報になっている。オーロラツアーの催行が決定したようだ。旅行会社に午後から出向いて金額の打ち合わせなどをして、喫茶店でくつろぐことにしようと思う。家でゴロゴロしているとかえって腰の痛みが増すような気になる。
 そういえばパソコンの手配はどうなっているのであろう。旅行会社と同じビルに家電量販店があるのでついでに覗いて見ることにする。
 昨日の感想は出かけるまでに作り上げたい。

 実は、太平洋側でしか育ったことのない私は、雷とは夏から冬にかけてみられる現象だとばかり思っていた。俳句をはじめてから冬に雷、という表現があることを知り、びっくりした。中学・高校から気象にはそれなりに興味があり、テレビの天気予報などはじっくりと反芻しながら聞いたり、天気図作成に幾度も挑戦したこともある。しかしこのことは迂闊にも知らなかった。
 今から15年ほども前に「冬の雷(らい)」という俳句の冬の季語があることを知った。だが、基本的には日本海側の雪の前触れのことをさすと教わった。「雪起こし」という季語もこの冬の雪をもたらす雷をさすという。これは日本海を通過する寒気に伴う大気の乱れにより発生するものであり、雪の少ない太平洋側ではみられない。太平洋岸の冬の雷は珍しい。世界的に見ても冬の雷というのは北欧のノルウェーで見られる程度とのことらしい。
 「鰤起こし」というのも冬の雷をさす。これなどはいかにも生活感溢れることばで俳句らしい言葉として好きである。

 寒雷に日のさしかげる船障子(石原舟月)
 海沿ひの一筋町や雪起こし(小峰恭子)
 一湾の気色立ちをり鰤起こし(宮下翠舟)