二度「下村観山」展を見てきた。前回同じ横浜美術館で開催された横山大観展で知ったのだが、下村観山と横山大観は並び称せられるような関係であったようだ。
大観は1868年生まれ、観山は5歳下の1973年生まれ。そして観山は1930年に57歳の若さで亡くなっている。一方大観は1958年に90歳という長寿で亡くなっている。
横山大観も下村観山も名前だけは知っているものの、作品を見た記憶もないし、両者の区別もつかない程度の知識しかなかった。
そして前回横山大観の前半の作品展示をみて、大したものだとは思ったが、人物表現にはそれほど感慨は浮かばなかった。また緑色の使い方に若干の違和感もあった。ただし風景画には面白いところがあると感じた。
今回私は一瞥して横山大観よりも下村観山の方が私の好みであると感じた。あくまでも好みの問題であると感じているが‥。大観と比べると人物の表情が自然である。中国人を鉤鼻にしてインドより西方の民族のような描き方をしているなど強引さはあるものの、違和感は感じない。隠者や僧の描き方も観山のほうが実際の人間により近い表情・物腰があり、好感が持てる。また遠近の表し方がずっといい。
展示は、
第1章 狩野派の修行
第2章 東京美術学校から初期日本美術院
第3章 ヨーロッパを旅する
第4章 再興日本美術院
の4章からなる。
岡倉天心の影響がいかに大きかったか、展示ではそれに随分触れていた。
そういう意味で、ここに掲げた大観と観山で描いた日月蓬莱山図ととても興味深い。絵自体は大観32歳、観山27歳だからまだまだ未完成な感は拭えないが、この時点では大観に一日の長を感じた。
横山大観 1900年 日月蓬莱山図 月
下村観山 1900 日月蓬莱山図 日
日輪と朝の日の出の頃の山と鶴の群れを描いた観山、大観は海を背景とした崖と月の出と鶴の飛翔を描いている。大観の山肌と月の光は落ち着いて画面にその存在を充分にいきわたらせて収まっている。陰翳が実に巧みである。陰の濃い部分が静かに眠っている。しかし観山の山肌は太陽の光線との関係から見て不思議な輝きを持っている。鑑賞者の方に向いている山肌が輝いているが太陽はその向こうにあるので、この輝きは一部無理がある。空気も大観の方が広がりがある。無理なく鶴の飛翔のほうに視線が向かっていって広々とした景色が想定できる。観山の方の山の空気は広がらずに鑑賞者の方に向ってくる。
これは私が見ても大観の方がずっといい絵である。この頃ならば5年の年の差は大きいと思う。
しかし1903年から1905年のヨーロッパ留学を経て、7年後の1907年、34歳の「木の間の秋」となると、実に大きな飛躍を感じた。西洋画の影響を消化しようとした形跡が生々しく、しかも好ましく感じられる。大観よりも西洋画の洗礼を大きく受けたような絵である。光の陰影と黄色の濃淡による空気遠近法がごく自然に効果的に思える。特に右双の左の白い木の存在が生々しい。実は大観も同じ頃、アメリカ、ヨーロッパを回っている。私は大観展ではその留学による作品への影響を感じなかった。大観はインドの体験はかなり深いものがあったようだが、ヨーロッパをどのように体験し、絵画技術に反映したか今ひとつ判らずじまいであった。
この1909年、36歳の時の「小倉山」も先の絵と同様の描き方を思わせるが、さらに狩野派の技法なども駆使しているらしい。左双の左の空間が私にはとても好ましいと思える。それは右双の込み入った樹林によってもたらされる効果なのだろう。そして私が一番気に入ったのは、緑の色の配置である。大観の風景画は緑の多用とそのグラデーションに特徴があるが、私にはあまりに緑がくどく感じていた。大観の緑は実に効果的である。赤と黄色の枝が秋に残る緑の雰囲気を引き立てている。藤原忠平の林の中では異様な、ありえないような水干姿が異様に見えないのが不思議である。