7月末に東京ステーションギャラリーにて「没後30年 鴨居玲 踊り候え」展を見てきた。鴨居玲(1928-1985)という画家の私なりの像を結ぶことができなくて、そのまま放置してきた。
作品を順繰りに見て回って、さまざまな場面の画家の写真を見て最初の印象は随分とダンディな人だったのだなというものであった。同時にこの画家はこのダンディズムで地元の人々とどのように交流をしたのかな、という興味を惹いた。
さまざまな表現を試みている。シュールレアリズムや抽象表現など実に様々で多彩である。描く対象も多様だったようである。これらの試みの結果、しかし訪れたヨーロッパでも自己の表現の獲得に至らず、ブラジルという地で独特の表現を獲得したと解説されている。
確かに1968年の安井賞を獲得したという「静止した刻」とそれを改変した同名の作品は示唆的である。ここに示した改変された作品の方が登場している4人の人物の造形がより明確に描かれている。
描かれている4人の人物の内、劇的な表情、動作の人物は左側の上に書かれ、両手を広げている。また右側のさいころを振っている人間もこの劇の中の緊張感を引き受けている。そして他の上部中央の人物も勝負を見届けるという意味でこの劇に加わっている。
だが、左側下部の人間はこの勝負には加わっていない。たぶん賭けには加わっているようだが、まったく勝負の行方に興味がないような表情である。覚めた表情で喧騒にも加わっていない。この勝負の緊張感からも無縁であるような表情である。
私はこの男の表情に鴨居玲という画家の投影を見つけたように思う。ブラジルに渡ることによって独自の表現方法を獲得したことになっているが、決して人びとと安住することのかなわない意識は変わることはなかったと判断していいのだろう。
同時期の1968年の「蛾と老人」について画家は「しゃべることの空しさを描いたつもりで口から蛾が出ている絵を描いた‥」と述べている。蛾がネガティブなイメージかどうか、ということに解説はこだわっているが、問題は「しゃべることの空しさ」云々なのではないか。
「しゃべることの空しさ」ということが、そこに住む人々との対話が画家には不可能、断念ということでもある。アコーディオンを弾くという多分盛り場などでの大衆的な芸能者なのであろう。これらの人々との対話がどこかで空回りするという画家のもどかしさ、あるいは孤独感がひしひしと伝わってくる。
こののち画家は日本にいったん戻った後再びスペインに渡る。解説では画業の絶頂期をむかえたことになっている。「南米、パリ、ローマを放浪しても地元の人間と打ち解けることのなかった鴨居だが、陽気な「私の村」の人々とは、気さくにふれ合い、人生で最も幸福な日々を過ごした」と解説されている。だが、結局長くは続いておらず数年でここの村を離れスペイン国内を転々としている。
明るい風景と自然は気に入ったようだが、結局は地に足の着いた生活感溢れる人々とは溶け込んでいない。写真を見る限りスマートでダンディで陽気に振る舞っているようだが、どこまでも放浪者として振る舞わざるを得なかった画家の焦りのような気持ちが画面に反映されている。
その作品が1973年の「おっかさん」にも表れていると思う。母親というものの一般的なあり様、ひとりの成人として肉親というものに対する親和的なありようというよりも、私はこの母親の像に一般的な庶民の姿の象徴と、その庶民性に対する画家の違和感、それもかなり強い違和感というものを感じ取った。
「知識人と大衆」という枠組みで物事を把握するならば、大衆とどこかで乖離している自分、大衆のエネルギーの発露に惹かれるもののどこかで疎外感を持たざるを得ない知識人のあり様、そんなことを抱え込んでしまった画家の自意識そのものにも大いに違和感を持つという二重の疎外感を私は感じている。
口から蛾が出てくる「しゃべることの空しさ」というのもそのような心理的な葛藤を描いているのではないか。こんなことを考えている。
晩年の代表作といわれる、1982年の「私」もこれまでの画題、モデルとの対話というよりも画家がかかわった人びととは結局のところどう自分が関わっていいのかわからなくなった喪失感、人生の敗北感を感じる。
画家の放浪性というよりも、日本でもヨーロッパでも南米でも、多分世界中のどこでも安住することの出来ない自分のあり様に対する絶望を私は感じる。
白いキャンパスの周囲にいるかつてのモデルとなったり、絵に登場してきたと思われる人々は決して裕福でもないし、成功者でもなく、それこそ酔っぱらって身を持ち崩しそうな人々であり、貧困でもたくましく生き抜く女性であったり、道化であったり、裸婦として画家の前に身を去られ出す女性であったりする。クールベの「画家のアトリエ」のように成功者や金持ちも含まれるような人々とは違う。鴨居玲は底辺の人々に対するあこがれと同時に彼らから結局のところ受け入れられることのなかった自己の生涯にたじろいでいるのであろう。
逞しくしたたかな、ひょっとしたら人も平気で裏切るかもしれない下層の人々との距離がどこまでも埋まらないもどかしさがこの画家の画業の魅力でもある。
私は画家と下層の人々との埋まらない距離感を自覚し続けた画家の絶望ともいえる「もがき」にとても共感する。「放浪癖」とひとことで言ってしまうことはとてももったいないと思う。社会や人々に対する違和感、これを若さとして切り捨ててしまってはいけないのと同じである。
もう一つ象徴的な作品がある。さまざまな技法や傾向を傘下に模索した中で、空中に浮遊する教会を描いた作品は継続したモチーブに思える。
スペインやブラジルでは教会というか、宗教というものは生活に大きな比重を占めている。日本という国で成人を迎えた人間にはなかなか理解できないものであるらしい。教会、宗教というものとどのように対するか、下層の人々の生活とも切り離せない教会というものの存在の重さをどのように理解するのか、重くのしかかった教会というものの存在が重苦しく圧し掛かるような浮揚する教会として繰り返し現われてくる。「何故、自分は神を持っていないのか」という画家の自問が繰り返されたように作品に繰り返し現れてくる。
画家にとって最終的に打ち解けることのできなかった社会の底辺の人々との違和感のひとつに、この宗教というものに支えられた逞しい生活感情というものがあったと私は感じている。描かれた教会には扉も窓もない。異邦人である画家の理解を拒否しているように。たぶん日本に戻っても画家は日本という土着の生活感情、生活感覚からは拒否されつづけたように思う。
これは私自身も無縁ではないと思う。