昨日夕刻にBunkamuraザ・ミュージアムで開催している「風景画の誕生-ウィーン美術史美術館所蔵」(副題:風景を旅する-巡る季節の物語)を見てきた。
チケットショップで1500円のところ、350円の格安で妻がチケットを手に入れてきた。
ネットの解説では、以下のように記されている。
★美術の歴史のなかで、いつ頃、どのような過程を経て「風景画」が誕生したのかを問うてみるのは、大変興味深いことである。幸い、わが国の美術愛好家にもなじみ深いウィーン美術史美術館には重要な風景画が所蔵されているので、厳選された約70点の作品を本展で展示することによって、私たちの抱いている興味に答えることができる。
よく知られているように、そのなかに人物を描くことのない純粋な「風景画」は、17世紀のオランダを中心とする文化圏で生みだされている。だがそれ以前にも、たとえば、イエス・キリストの降誕の場面の背景にそれを祝福する美しい風景が描き出されているし、聖母マリアが危難を避けてエジプトへと逃れる途上で、嬰児イエスを抱きつつひとときの休息をとる場面には、いかにも平穏な心休まる風景が描き出されている。また風景とは単なる空間の広がりのことではなく、人がそこに生きて過ごしている時間の流れでもあるとするならば、このような人が存在し生きている空間と時間の表現は、古代より描き続けられて来た一年12ヶ月の月暦図のなかに年中行事や風景とともに見られる。さらに画家たちは、心の中に想像される幻想の風景も描いた。ネーデルラントの画家ヒエロニムス・ボスの工房で生みだされた奇妙な「風景画」は私たちを大いに驚かせ楽しませてくれる。
本展は、風景画の誕生というドラマをたどりながら、個性豊かなそれぞれの「風景画」の中を、まるで旅するかのようにご覧いただくことのできる展覧会である。
木島俊介(Bunkamuraザ・ミュージアム プロデューサー)
展覧会の構成は、次のとおり。
【第1章】ヨーロッパでは15 世紀以降、描かれた窓を通して風景が絵の中に取り入れられはじめ、次第に聖書や神話の物語の舞台として生き生きとした風景表現が登場します。
16世紀にアントワープで活躍し、美術史上初めて「風景画家」と呼ばれたと言われるパティニールは、聖なる主題と背景の風景の比重を逆転させ、はるかなる眺望へと観る者を誘うパノラマ風景を生み出しました。
【第2章】風景は17世紀になると聖書や神話の物語の舞台としてではなく、独立した主題として広まり、次第に専門分野へと分かれていきます。そして17世紀半ばのオランダの画家たちは、身近な風景をそれぞれの感性によって、誇りを持って描き出しました。
絵画が宗教や神話の世界から切り離される過程で風景画が誕生した、と簡単に言ってしまうのはなかなか勇気もいることかもしれないが、その過程には同時に「風景を楽しむ」という人間の観念の独り歩きの肥大化も進行していたと思われる。
また同時に人間のさまざまな営みと自然との関係を自覚的に見つめる、という行為や観念が価値を持つにいたったともいえる。
キリスト教の分裂、プロテスタントの成立や都市の発展、農村のあり様などの観点とすり合わせながらの考察もまた魅力的な課題になるのであろう。中世という時代そのものの把握につながる。
こんな大それた鑑賞はとてもできないが、それらの一端くらいは覗いてみたいものである。
そんな中で気になった作品を時代順に並べてみた。
〈ヨアヒム・パティニール「聖カタリナの車輪の奇跡」(1515以前)〉
風景は遠景であまり現実感はない。しかし風景の校正はかなり現実が反映されているように思える。宗教的な主題が最前面であるが、画面に占める割合は小さく、ドラマチックな場面にもかかわらず点景として描かれている。奇跡にもかかわらず大きくアップされていない。
港では大きな火を囲んで円形に人が集まっている。これがとても気にかかる。表題の「車輪の奇跡」との関係があるのだろうか。それとも港の習俗の一環なのか、知りたいものである。
〈ヒエロニムス・ボスの模倣者? 「楽園図」(1540-50頃)〉
この「模倣者」というのがよく理解できないが、「工房」でもないということなのだろう。風景画といえるかどうかはわからないが、ボスの作品と云うと寓意画と捉えてしまう。しかし背景の風景に限らず描かれたものが風景的要素も持っていることは確か。風景に寓意を込めるという観念が膨らんでいたと考えることも出来るのであろう。
しかしこれを読み解くのは、当時の観念に生きてきたわけでもない私にはとても不可能に思える。ヒエロニムス・ボスの描く作品の寓意を読み解くのは私にはとても理解不能である。それでも気になり絵の前に吸い寄せられるのが不思議である。
絵画作品は読み解くのではない、ということの表れでもあるのだろうか。そのようなことをボスは思っていたのであろうか。
〈アールト・ファン・デル・ネール 「月明かりの下の船のある川の風景」(1665-70)〉
この作品はもう神話も宗教もそして寓意も感じられない。全体の3分の2以上を占める広い空に立ち込める複雑な雲とその隙間から差す月光、その下の船のありように画家の視点は完全に移行している。
月の光とそれを反射する水面、その下での人間の営為、共に画家の関心事であるようだ。宗教的観念を媒介とした絵画ではなくなっているように見受けられる。だが、この風景の中にある種の人間のありようの理想像が書き込まれているとしたら、従来のキリスト教的な観点とは別の観念が生じているのかもしれない。それは私にはわからない範疇である。
〈ヤーコブ・ファン・ロイスダール 「渓流のある風景」(1670-80)〉
ロイスダールの名は、ネーデルランドの風景画家として聞いたことはある。風景画家として幾度か作品も見た記憶がある。私の記憶の範囲では、ロイスダールの作品に人は現れない。農民も職人も、典型としての人間も現われていない。ただし家や風車や船などの建築物は描かれている。森や海などの自然だけではない。
人間を排除して、風景画そのものとして成立したことの証左であろうか。
またロイスダールの風景画は画面の半分以上を占めるボリューム感いっぱいの雲と空が美しい。この作品では水の流れそのものが主題である。「さみだれや大河を前に家二軒」(蕪村)よりもさらに人間の痕跡は排除されている。