Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

明日の準備完了

2020年09月13日 22時30分24秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 小学生のときのように、メモを見ながら忘れ物のないように、明日の用意をしている。情けなくもあるが、新鮮でもある。明日の会議の資料の打ち出しは終了。ランドセルならぬリュックの中身も点検。

 印刷で紙とインクを消耗した。それよりもかなりの時間をかけている。楽しみ半分、仕事としての気分半分、というところか。明日は9時ごろに家を出て出勤予定。

 明日の帰宅は遅くなりそうである。


「葡萄」は秋の季語

2020年09月13日 20時53分02秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 本日の最高気温は15時過ぎの27.5℃とほぼ平年並み。二日続けて30℃を下回った。しかし空には低く黒っぽい雲が垂れこめ、雨が降っても不思議ではなかった。秋の空とはほど遠い鬱陶しい空であった。陽射しを感じたのは3度ほど、いづれも10分も続かなかった。
 昨日の晩黒い葡萄を食べた。身がぎっしりと詰まり、小気味よいほどに締まった房であった。

★手榴弾つめたし葡萄てのひらに     高島 茂
★一つぶの葡萄の甘さ死の重さ      稲垣 長
★原爆も種無し葡萄も人の智慧      石塚友二

 不思議な句を3つほど。解釈というか、イメージがなかなかつかめない句である。「手榴弾と葡萄」、「葡萄の甘さと命の重さ」、「原爆と種なし葡萄」よりにもよってこんな難しい取り合わせをどうやって思いついたのか、とおもう。あるいはこれらが並列になるような感性はなかなか理解できない、と一見して思わせる。そこが句づくりの狙い目なのかもしれない。

 第1句、私も手榴弾を持ったことはない。しかしその無機質で命をやり取りする兵器であることは知っている。葡萄との共通点は「つめたし」だというのだ。確かに葡萄は冷やして食べるのが美味しいし、ブドウ園などで木になっている葡萄は手にとると意外にひんやりとする。そして思いのほかに重みがある。表現はしていないが「重い」というのも共通点であることは前提のようだ。
 多分、「冷たく重い」が手榴弾(無機質)と葡萄(有機体)とで違いがあるのだが、生命力を奪うことと生命力の糧でかつその実りであるということの差に思いを至すことが、この句を作った作者のねらいなのかもしれない。
 ひょっとしたら戦地でぎりぎりの恐怖の体験をして、手榴弾を握りしめたその手に現在葡萄をやさしく載せている作者自身の時間の長くかかった感慨が語られているかもしれない。

 第2句、第1句と同じように解釈してみることもできる。手のひらではなく、ここでは口の中の感覚である。他者によって、国の強制によって死と向き合わなければならなかった体験よりも、一粒の葡萄の甘さを作り上げたり、それを味わうことが出来ることの方が、人生にとって大切な実りである。この解釈は少しひねり過ぎているかもしれない。
 それよりも、戦争だけでなく死に瀕した人の救いになることで、葡萄の一滴の汁の甘さは、死と拮抗し得る、と断定もできる。そんな解釈もできる。

 第3句、確かに共通点は、人の智慧によって生み出されたものである。人はその生産物であるいは活動の結果として、常に自己自身を否定してしまう動物である、と定義することも出来るかもしれない。原子爆弾も原子力発電も人が作り出し、人間と人間の社会を破壊する。種なし葡萄というのは、自身の繁殖を否定している。そういった意味では植物が当然持つ自己の再生産という大事なものを否定することで市場に出回り、人の食物となる。
 何とも不思議な現在を提示していると思う。

 いづれも「人間存在」の何かを考えさせる句である。



 作品は、坂田一男 のコンポジション(1936、個人蔵)、手榴弾による造形。


足の痛みはかなり改善

2020年09月13日 18時06分21秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 オンライン講座が終了後、メール作業などをこなしているうちに14時過ぎになってしまった。慌てて「若冲」を読み始めた。読んでいて佳境に入ったら、買い物を頼まれてしまった。買い物に行かないとするとまったく外に出ない事にもなりかねないので、ブツブツいいながらも、往復50分かけてスーパーへ。

 足の痛みは完全には治っていないので、このくらいの距離を歩くのが調度良いくらいだったかもしれない。歩き始めは足の裏の筋肉が左右共に痛かったけれど、5分も歩くとその痛みは無くなった。右足の第一指の付け根当たりはまだ痛みは残っているが、これも先週の痛みに比べれば雲泥の差である。

 横浜では雨は降らずに済みそうである。しかし西の空や北の空は黒い雲で不気味である。