Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

栗ご飯、栗を食む

2020年10月04日 23時41分01秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 のんびり休養日が残念ながら終ってしまう。明日からはニュースの編集作業と記事の作成、その他の作業にとりかかることにしている。この編集作業をしながら、30年記念誌の編集と私の割り当て原稿もある。まずはメールと電話を午前中に幾つか。
 さらに来週はオンライン講座をひとつ、団地の管理組合の会合がひとつ。前者は楽しみにしていたもの。
 やはりこうやって作業の概要をまとめていくと、忘れたり日程に齟齬をきたすことも少なくなる。日記的なブログ記事も、自分自身の備忘録として大切にしたいものである。手帖や日程表には表れない、備忘録である。

 一昨日、栗ご飯を妻が作ってくれた。楽しみにしている秋の味覚の一つである。そして本日それなりに柔らかい柿を購入してきてくれた。熟したというのではなく、もともとが柔らかめの柿、嬉しかった。
 早いうちに、サンマやキノコ三昧の食事をしたいものである。

★栗飯のまつたきくりにめぐりあふ    日野草城
★栗食むや若く哀しき背を曲げて     石田波郷
★我を信ぜず生栗を歯でむきながら    加藤楸邨

 第1句、この句は明るい。たまたま栗ご飯の中に割れていない剥いたままの形のいい栗を見つけた一瞬の嬉しさを固定している。「めぐりあふ」という動詞がいい。明るい秋の気分に満ちている。飯からのぼる湯気も感じられる。どこか明るい若さを感じる。
 第2句、若いが背を曲げて「生きるために食べる姿が哀しい」、というのは肺の病で苦しんだ波郷ならではの句ではないだろうか。栗の実というのは、食べるために剥くことに苦労をするものである。一心不乱に栗と格闘しながら食する姿勢には生に対する内向的な雰囲気が漂う。第1句とはまったくちがう栗のイメージ、そして生きることの定義そのものが違っているような気がする。
 第3句、「まぼろしの鹿」所収の1966年61歳の句。自分の若い頃のことを回想したか、あるいはこの年、学生と東北旅行にたびたび出かけたと年表にあるので学生のことか。生栗を歯で剝くのは歯がしっかりしている10代、20代の特権かも知れない。波郷の句の若さとは違い、放埓でがむしゃらな若さが、栗を剥く仕種から感じられる。そしてその仕種は自分が何者なのかもがき苦しむ姿でもある。第2句との違いに注目した。



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