Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

好きな絵「聖トマス」(ラ・トゥール)

2020年10月06日 18時37分26秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等



 先ほど帰宅。喫茶店で「国立西洋美術館の名作ガイド」をまず見て、そして読んでいた。昔から気になっている作品が掲載されていた。
 ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652)の「聖トマス」という作品である。ラ・トゥールはヨセフとキリストの父子象「聖ヨセフ」などの新約聖書に材を得た宗教画と、「いかさま師」などの風俗画で有名である。
 この作品は解説によると、「キリストの「復活」を疑い、直に復活したキリストの脇腹のやり傷に触れてからそれを信じた」といわれる十二使徒のひとり。ネットで調べるとインドにわたって布教したといわれている。絵画では槍や正方形がシンボルとして描かれるとのことである。
 この作品、幾度も常設展で見ている。そのたびに気になっていた。今回ようやくこの解説に接することが出来た。
 槍の傷に触れた、という伝承から槍がシンボルとして描かれでいる。構図として目につくのは暗緑色のマントのような衣装が四角い窓枠のように描かれ上半身が出ている。衣装でシンボルの正方形が描かれている。
 気になるのは、頭の頭頂部から鼻筋を通って槍と直交する線と、視線のズレである。ギョロっと鋭く見つめる視線は、槍と直交しないで槍の穂先を見ているように見える。
 両手の指は槍の重みをしっかりと支えるために力がこもって、キリストを慕う気持ちをあらわしていると推測され、印象的である。この力を込めて持っている槍と直交する頭から鼻筋の線は、力学的・身体構造的には不可欠な直交だと思う。
 しかし視線が槍の先に向いているということは、槍のもっとも重要な役割である穂先を見つめながらの思索にふけっているということである。
 顔の描き方もまた丹念で、思索に耽る様子が、皺の一本一本と引き締まった口元に存分に込められていると思う。
 この思索は実に普遍的ではないだろうか。聖書的な解釈は別として、私は人を殺す武器としての槍を見つめる思索、と解釈してしまう。画家の本来の意図とは違うかもしれないが、やはりキリストの死を契機として、人間の生と死、あるいは人間の性(が)ともいえる死をもたらす諍いといった人間の存在の根底への思索に誘導されてしまう。
 トマスという人は疑い深い人ということになっているらしいが、それはロシア正教などでは「思索の人」という方向に転化しているという。ラ・トゥールも「思索の人」としてこの作品を描いたのではないか。そしてそれは見る人を「生と死」という思索に誘導するという効果を与え続けている。
 見る人はさまざまな思いを持って観賞する。その思いを槍を契機に「生と死」「死をもたらす諍いとは何か」に誘導してくれる作品である。
 少なくとも私は、新約聖書の世界に捕らわれず、普遍的な思索に誘導してくれるものとしていつもこの作品の前で立ち止まる。



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