うっすらと積もっていた雪も夜中過ぎから雨混じりとなり、白いところがどんどんなくなっていった。7時過ぎに外を見ると雪は消えていた。雪掻きの必要がなくなり、二度寝。
本日は昨日に続いて親の通院の付き添い。昨日は眼科、本日は整形外科と内科。本日は定期的な通院だったが、昨日は突発的な通院。だんだんとこういう日が多くなってきている。
昨日から本日にかけては「芸術原論」(赤瀬川原平)の第三部「脱芸術的考察」の「価値をつくる」および「自壊した絵画の内側」を読んだ。。
「現代の芸術はすでにある価値の多少の価値の移動によって、その作家の手もとになにがしかの価値を生んでいる。経済的にも多少は儲かったりする。しかしそれ以上のことはない。もともとは絶対的な新しい価値をつくる担い手であった芸術が、いまは世の中のほかの担い手たちとおなじように、相対的な価値しかつくり出せなくなってきている。」(価値をつくる)
「芸術とは芸術家がつくるものだ。芸術作品にはその作者がいる。その作品の芸術的意味、芸術的価値は、それを作ろうとした作者によってつくられるほかはない。ところが超芸術作品には作者がいない。・・・では作者がいない超芸術作品は誰が作るのか。それはほとんど観るものによってつくられている。無意識の耕作者によってつくられたものが、その発見者の意識によって超芸術となる。芸術作品では意味と作業とを統一している作者一人の役割というものが、超芸術では工作者と鑑賞者の二人に見事に分担されている。分担というより、その価値のほとんどすべてがそれを鑑賞するものによってつくられている。それが発見されなければそこには何の価値もない・・・。」(同)
ここまでの引用部分には、私が理解した限りでは同感である。
「つくる、ということの原理をのぞくと、結局はエネルギーの変換に過ぎないということになる。・・・価値というのは人間だけが創り出したものではなく、生命のすべてが創り出している。価値というのは自分の力が創るというより、その価値を受けようとすることがその対象物に価値を創る。そういう芸術、超芸術の価値を代表して、エネルギー変換の剰余というものがさらに桜れていくだろう。芸術、超芸術の価値を代表として、エネルギー変換の剰余というものがさらに探られていくだろう。物質的エネルギー変換の剰余として生れた精神の、さらにその余りとしての霊的世界のことである。」(同)
結論部分のここについては、よく理解できていない。理解できるには時間がかかりそうである。文章がこなれているとは言えず、飛躍も多い。とりあえず保留しておこう。
「かつて平面に閉じられていた絵画が立体的に捻じれてふくらむ現場を目撃してきた私は、その芸術の価値がさら私の体内で捻じれながら現実空間へ蒸着していくのを感じていた。だけどそのときの私の頭の中には何の理論武装があるわけではなく、間もなくはじまった「千円札」の裁判で、芸術の不確定性についてのさらに重く苦しい勉強をすることになるのであった。」(自壊した絵画の内側)