第1部の最後の「白村江以降――万葉集の形成と渡来者」を読み終わった。
万葉集の作られた時代は、白村江の敗北から、多くの渡来者を向かい入れ、天智から天武・持統朝の歴史の転換を経て、天武系の天皇の時代であった。
そして新羅系の渡来者である額田王、百済系の渡来者としての山上憶良を取り上げている。
「額田王が新羅系のゆえに紫をもって例えられるにふさわしいことは、いうまでもなく、紫の染色が韓(から、唐)伝来の手法だったからである。当時紫草はすべて栽培で野生を記した文献を知らない。‥紫は最高の位階を示す言葉として用いられ、その服色となっていた。額田も(大伴)旅人も、紫をもって称せられることが、すなわち高貴さの賛美であった。」(「二 紫の記憶」)
「(憶良の)最も大きな特色は、その仏教色にある。万葉集があれほど仏教が盛んだった7~8世紀における和歌を収めながら、仏教的色彩の少ない‥。このわずかな仏教的色彩の、その8割がたを占めるのは憶良の作品である。‥憶良のあり方は、しばしば「日本霊異記」の内容と相通ずる。「霊異記」に景戒の自画像として描かれたものは余りにも憶良の「貧窮問答歌」と近いし、人間の無明のさまも、彼我共通するものがある。」
「当時は仏教隆盛の時代である。民衆は「山沢に亡命し」徒党を組み、行基の下に集まり、私度僧は激増した。古代人が仏教を嫌ったのではない。にもかかわらず和歌に見えないというのは、彼らの自らの表現なるものがあって、その枠組みを破ることがなかったからである。しからば憶良はなぜこのような枠を超え、異質な表現をすることができたのか‥。」(「三 郷歌の余韻」)
「憶良の歌はきわめて、非土着的である。‥彼の歌の中には叙景歌と呼べるようなものはない。‥彼の目が余りにも人間の上に注がれていたことを示している。さまり風土・自然に対する関心のなさは、人間への関心と表裏をなすことであった。」(「三 郷歌の余韻」)
「土着性も地縁性もない憶良が人間に視野を展げるのは当然のことであろう。殊の外に自然に心を寄せた大伴旅人の最終歌と憶良の最終歌とをならへぼてみれば、それは余りにも明瞭である。
“しましくも行きて見てしか神なびの淵は浅にて瀬にかなるらむ” 大伴旅人(巻6 九六九)
“士(おのこ)やも空(むな)しかるべき万代(よろずよ)に語りつぐべき名は立てずして”
山上憶良(巻6 九七八)
この人間世界が、自然風土に変わるべきものとして憶良を暖かく包摂し、それを懐に安息せしめたかというと、ことはまったく逆であった。世の因縁が、愛が、貧窮が彼を苦しめた。」
「憶良は仏の浄土を憧憬の風土とするしかない。その原因を辿り戻れば、彼が四歳の離郷者だったことにつき当たる。無風土の詩人の目には、いやが上にも仏土を荘厳しようとする希求があった。「白村江」にまつわるいたましさがここにあった。いたましさは皮肉にも彼に詩人としての栄光を与えた‥。」(「四 風土としての仏土」)
この山上憶良論は、読み応え充分だと思った。心にとめておきたいと思う。