Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「図書9月号」 その1

2019年09月02日 12時03分56秒 | 読書



 昨晩から本日にかけて「図書9月号」を読了。いつものように覚書・抜き書き。16編のうち12編を読んだ。

1.[表紙]湖畔の夢             司 修
「『ダーウィンの悪夢』というドキュメンタリー映画を観ました。‥タンザニアでの悪夢は、資本主義の未来図を突き付けられたようでありました。‥巨魚を食べ続けるために胸元がテーブルになった人は、気まぐれにストリートチルドレンを取って食べるのです。湖には何百とそのような人が浮いているのです。湖は輝いていました。」

2.本当はバージョンが二つ作れたらいい   宮下志朗
「そういえば現代を代表する翻訳家でもある村上春樹が「本当は翻訳のバージョンを二つ作れたらいい」‥と発言していた。同感です。」

3.私にとっての加藤周一          伊東光晴
「(加藤周一)は理性の人であるとともに、直観にすぐれていた。社会を見る目も確かであり‥。死者を死せりと思うなかれ。生者のあらんかぎり、死者は生きん、である。」

4.別離                  小池昌代
「(落葉は)光の不足などで枯れ始めた葉っぱには、枝と葉の間に、「離層」と呼ばれる細胞層が形成されることがわかった。落葉は、植物の老化現象だが、この離層が形成されることにより、枝と葉が切断される‥。果実の実が落ちることを落果というが、落果の場合も落葉と同様で果柄と果台との間に、離層が形成されるという。離層とはスムーズな離別を促す装置なのである。落葉や落果という植物の部分的な死は、一つの生命体が成長し生き延びるために必要なもので、植物を見ていると、生命というものか、そのように常時、死を抱え込んでいることがわかる。」 「時が満ち、全ての細胞が納得し、梅は落ちる。枝から地面へ。その数秒間を思ってみよう。例えば詩の行も、次々と落下する梅のごときものであったら、改行は限りなく自然な切断となるだろう。それ自体の重みで自然に言葉が切れ、次へ渡る。言葉の別れ、切断こそが、詩のリズムを作る。」
「わたしも落果している途中の梅なのだと、想像してみるのも面白い。いつ、どこへ落ちるのかわからない。その時はいきなりくる。それを思うと、木になる梅の一個一個に、覚悟というものが見えてくる。地面に落ちたとき、誰にも聞こえないほどの柔らかな音が立ち、そこから先のことは、もう誰にも分らない。実っているときより、少しだけ遠い空。その時が来たら、もはや誰にも拾われたくはない。落ちた場所で、一人静かに朽ち果てていくことにしよう。」

5.秋田の異端、レジェンドの酒造り     小坂佳子

6.科学技術ジャーナリズムの役割      山本義隆
 岩波新書の「近代日本一五〇年-科学技術総力戦体制の破綻」の科学ジャーナリスト賞受賞挨拶を起こしたもののようである。
「「啓蒙」より「批判」を。中央官庁や大企業といっしょになって科学技術のもたらす「明るい未来」を語ることではなく、そういった宣伝の背後にある問題を発き出すこと、「啓蒙」ではなく「批判」を中心とすること、このことこそが科学技術ジャーナリストの役割であり氏名だと思います。」

7.漱石俳句の典拠             徳田 武

8.深い海の底から             赤坂憲雄
「わたしは高校二年の冬に、何人かの友人たちと校長室を「占拠」して「ハンスト」のほんの真似事をしています。そのとき、ポケットにランボーの「地獄の季節」の文庫本を忍ばせていたことが、思い出されます。‥それ以来、わたしは言葉と現実との剥離状態に苛まれることになったのです。ずっと言葉を探しつづけることになりました。他者と繋がるための言葉がなかったのです。他者の言葉はいつだって、はるかな海面にぷかりぷかりと浮かんでいる藻屑かなにかのようでした。他者と言葉を交わすことは、わたしにとってはいまも不安や畏怖にみちた体験であり続けています。」
「荒れている言葉を鎮めて、言葉の力を、それゆえ言葉への信頼をとりもどすことは、いかにして可能か。それはあくまで、臨床的なフィールドにねざしてこそ可能となるにちがいない、そう、わたしは信じています。」

9.目にはさやかにみえねども        辰巳芳子
「自然は、実にさりげない仕方で時の移ろいを教えます。九月に入っても、夏の陽の色は衰えぬかに見えますが、よく観察すれば太陽の描く軌跡がやや低く、穏やかな弧を描くようになったことに気がつかれましょう。喧しいほどだった油蝉も命を燃焼し尽くして一匹、また一匹と姿を消し、空が黄味を帯びる時間になると梢からは、かなかなかなかな、と茅蜩の声が降るように聞こえてまいります。驟雨のように盛大な絶唱でありながら、不思議とその姿は見えません。どこに潜んでいるものでしょうね。向こうの山から我が家の庭に眼を転じると、一面蔽うばかりの秋草の叢です。・・・・・。秋の草はいずれも、目にはさやかに見えぬ風の動きを知らせるが如く、あくまで優しい姿をしております。」

10.菅生事件               片山杜秀
「二人の被告の声が共産党流のコミュケーションの限界を象徴している。「職業化された話し方」の何とそらぞらしいことか分別ありげでもっともらしい「大人の言葉」は裏返せば「衰弱した肉体と虚大な精神」に支配された貧しい言葉にすぎない。そんな言葉では、肉体と精神を包括する生命なるものの不定形で測りがたい力を掬えない。生命なくしては飛躍もない。飛躍無くしては革命もない。革命をもたらさない声と言葉で革命への道を開こうとする不可能性の罠に落ちているのが、「共産党の在り方」。‥生命にふれること。飛躍すること。革命を起こすこと。これは政治的左翼だけではなく、前衛芸術家の課題でもある。では、飛躍を促し、生命とつながる声や言葉は、どこにあるのか。むろん菅生村の村人の「聞き取りにくくもあったし小声で、いわゆるトツ弁」が、武満の肯定しうる声や言葉のひとつのイメージになる。」

11.鬼の話、二題             三浦佑之
「風土記に出てくる鬼は、どちらも、角が生えていたり、虎皮の褌をしているわけではない。しかし、ほとんどわれわれがイメージする鬼に接近しているとみてよく、霊異記説話にはじまる平安時代以降の鬼と重ねることができるのである。」

 「秋の蝉」(朽木祥)の抜き書きは、その2、で。



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