Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

雲の峯

2019年07月05日 20時59分15秒 | 俳句・短歌・詩等関連

★空(くう)をはさむ蟹死にをるや雲の峯     河東碧梧桐

 梅雨の空を見上げながら、夏の雲を見たくなった。「雲の峯」という季語がある。

 1906(M39)年、新傾向俳句に突き進むころのの作品。1902年、子規の死後、次第に虚子と意見を異にするようになり、この年碧梧桐は日本中をまわり新傾向俳句を宣伝して歩いたという。
 大岡信は「百人百句」の中でこの蟹を沢蟹といい、小さい蟹が「雄大な雲の峯のもとで蟹が手をがっと拡げて死んでいるように思える」、「実際は小さな川の沢蟹が死んでいる姿」と記している。
 確かに売られている大きな蟹が、無念の表情で店先に並んでいる、という解釈は出来ない。だが海辺の浜や岩場、あるいは沢で人前に姿を見せる小さな蟹でもかまわないと思う。茂みに覆われて空が目に入りにくい沢よりも、雲の峯が手に取るように見える浜の方が似つかわしいとも思える。
 それよりもその小さな蟹が死んでいるが、雄大な雲の峯をその小さな挟みで掴んでいる、と見立てたのが、すごい。大袈裟すぎるという危うい地点に踏み込んでいるともいえるかもしれない。俳句表現では誇張も一つの技術だが、やり過ぎると確かに嫌味である。
 ただ「くう」というルビがある。作者がこう読んで欲しいということでる。「雲の峯」に引きづられて「雲をつかむ」と解釈してしまうのは危険だとも思った。「空(くう)」ということであれば、仏教の概念でよく言われる言葉である。「固定的実体の無いこと。実体性を欠いていること。うつろ。」と岩波書店の「仏教辞典」には記されている。
 「空(くう)」にこだわると、「蟹が空という概念を悟って生を全うした、その蟹を見おろしている組の峯」ということになる。さらに言外に「蟹ですら無窮の「空」という仏教の難しい理論を体得できる、あたかも空に浮かぶ雄大な雲の峯すら蟹の手中に収められるかのようだ」というようなこともできる。 

  いろいろと想像していると、限りなく時間が経ってしまう句である。



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