山吹の黄色の花が好きである。これは5歳くらいだったか、最初に記憶した花の名の内のひとつでもある。
父親の転勤に伴い3歳の時に函館へ転居した。二軒長屋の庭の真ん中に使われていない井戸があり、その井戸と板塀の間に八重の山吹が植わっていた。黄色の鮮やかな八重の花が印象に残っている。両親にでも教えてもらったのだろう、まもなく山吹という名を鮮明に記憶した。八重の山吹であった。
そして不思議に長雨と対になって記憶の奥底にその黄色が横たわっている。長雨の降る日、縁側から井戸まで庭に大きな水たまりができ、そこに雨の滴による円形の紋と、庇からの雨だれによる紋が絶え間なく作り出されていた。そこに黄色の山吹の花の色が映っている記憶である。
井戸の周囲には行ってはいけないといわれていたが、どういうわけかその山吹の枝を触った記憶もある。花に触った記憶はないが、葉のざらざらした手触りの記憶がある。そして幼稚園に入園してしばらくしてから通園路の途中のどこかの家の道路沿いの庭に同じ山吹を見て、うれしかったことを覚えている。
小学校3年になってやはり父の転勤に伴い川崎に転居したとき、そこの社宅の庭にも八重の山吹があった。それは他の木々の隙間にこじんまりと目立たぬように咲いていた。しかし「ここにも山吹が咲いている」という安堵感が見知らぬ土地での不安感を少しやわらげてくれた。小学校のクラスにはまだなじめない時期でもあった。
1年半近くで横浜に移り住んだとき、半年以上が経ってから新しい小学校の庭の隅に山吹の花を見つけた。決していい思い出だけではなかったこともあり、この一年でこの学校を卒業することにホッとするものを感じたのもこの花が咲いているのを見てからだ。桜の花が年度の変わり目で記憶に残る人も多いが、私の場合は桜を意識したのは高校に入ってからだ。
山吹で有名なのは「七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき」の歌だろう。もしもこの歌の来歴が事実なら、太田道灌も面食らってたじろいだであろう。
父親の転勤に伴い3歳の時に函館へ転居した。二軒長屋の庭の真ん中に使われていない井戸があり、その井戸と板塀の間に八重の山吹が植わっていた。黄色の鮮やかな八重の花が印象に残っている。両親にでも教えてもらったのだろう、まもなく山吹という名を鮮明に記憶した。八重の山吹であった。
そして不思議に長雨と対になって記憶の奥底にその黄色が横たわっている。長雨の降る日、縁側から井戸まで庭に大きな水たまりができ、そこに雨の滴による円形の紋と、庇からの雨だれによる紋が絶え間なく作り出されていた。そこに黄色の山吹の花の色が映っている記憶である。
井戸の周囲には行ってはいけないといわれていたが、どういうわけかその山吹の枝を触った記憶もある。花に触った記憶はないが、葉のざらざらした手触りの記憶がある。そして幼稚園に入園してしばらくしてから通園路の途中のどこかの家の道路沿いの庭に同じ山吹を見て、うれしかったことを覚えている。
小学校3年になってやはり父の転勤に伴い川崎に転居したとき、そこの社宅の庭にも八重の山吹があった。それは他の木々の隙間にこじんまりと目立たぬように咲いていた。しかし「ここにも山吹が咲いている」という安堵感が見知らぬ土地での不安感を少しやわらげてくれた。小学校のクラスにはまだなじめない時期でもあった。
1年半近くで横浜に移り住んだとき、半年以上が経ってから新しい小学校の庭の隅に山吹の花を見つけた。決していい思い出だけではなかったこともあり、この一年でこの学校を卒業することにホッとするものを感じたのもこの花が咲いているのを見てからだ。桜の花が年度の変わり目で記憶に残る人も多いが、私の場合は桜を意識したのは高校に入ってからだ。
山吹で有名なのは「七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき」の歌だろう。もしもこの歌の来歴が事実なら、太田道灌も面食らってたじろいだであろう。