Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

山吹の花の思い出

2011年06月05日 19時42分46秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 山吹の黄色の花が好きである。これは5歳くらいだったか、最初に記憶した花の名の内のひとつでもある。
 父親の転勤に伴い3歳の時に函館へ転居した。二軒長屋の庭の真ん中に使われていない井戸があり、その井戸と板塀の間に八重の山吹が植わっていた。黄色の鮮やかな八重の花が印象に残っている。両親にでも教えてもらったのだろう、まもなく山吹という名を鮮明に記憶した。八重の山吹であった。
 そして不思議に長雨と対になって記憶の奥底にその黄色が横たわっている。長雨の降る日、縁側から井戸まで庭に大きな水たまりができ、そこに雨の滴による円形の紋と、庇からの雨だれによる紋が絶え間なく作り出されていた。そこに黄色の山吹の花の色が映っている記憶である。
 井戸の周囲には行ってはいけないといわれていたが、どういうわけかその山吹の枝を触った記憶もある。花に触った記憶はないが、葉のざらざらした手触りの記憶がある。そして幼稚園に入園してしばらくしてから通園路の途中のどこかの家の道路沿いの庭に同じ山吹を見て、うれしかったことを覚えている。
 小学校3年になってやはり父の転勤に伴い川崎に転居したとき、そこの社宅の庭にも八重の山吹があった。それは他の木々の隙間にこじんまりと目立たぬように咲いていた。しかし「ここにも山吹が咲いている」という安堵感が見知らぬ土地での不安感を少しやわらげてくれた。小学校のクラスにはまだなじめない時期でもあった。
 1年半近くで横浜に移り住んだとき、半年以上が経ってから新しい小学校の庭の隅に山吹の花を見つけた。決していい思い出だけではなかったこともあり、この一年でこの学校を卒業することにホッとするものを感じたのもこの花が咲いているのを見てからだ。桜の花が年度の変わり目で記憶に残る人も多いが、私の場合は桜を意識したのは高校に入ってからだ。
 山吹で有名なのは「七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき」の歌だろう。もしもこの歌の来歴が事実なら、太田道灌も面食らってたじろいだであろう。

あわただしい出張

2011年06月04日 18時51分46秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★航跡は交わらぬまま梅雨夕焼
★紫陽花に静かな情念おりきたる
★黒飴の溶けたる艶も梅雨に入る
★ぬばたまの黒飴溶けて梅雨の雷
★鳥一羽大きく飛びて青時雨
★夏蝶の視界を急ぎ飛び去りぬ

 2日から1泊で神戸へ。朝、新横浜を出立し在来線で神戸の西の端のホテルへ直行。午後の会議、食事もホテル。翌3日の午前の会議終了後直ちに在来線と新幹線で新横浜へ。結局神戸の街中の散策にも買い物にも出かけず、というあわただしい日程をこなした。ホテルから夜と朝に、明石海峡と大橋、そしてそこを行き来する船を眺めただけであった。
 神戸は震災の翌年に出かけたから15年ぶりか。そのときはまた震災の爪跡が残る三の宮の商店街を歩いた記憶がある。

 そして6月3日は雲仙・普賢岳の火砕流から20年目の日でもあった。火砕流が迫ってくる映像は未だになまなましく思い出される。