メランコリア

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ここにあるのはわたしの心象スケッチです。

 「魔王が棲(す)む魅惑の城」@歴史秘話ヒストリア

2014-02-23 20:27:18 | テレビ・動画配信
歴史秘話ヒストリア

しばらく予録したまま放っておいた番組をちょこちょこと見てみた。
大河ドラマ「軍師 官兵衛」つながりで、戦国時代に的を絞って見たら、当時の武将の姿がよりリアルに見えてくる。


名作選 「魔王が棲(す)む魅惑の城~最新研究!織田信長 美しき城づくり~」
織田がつくった3つの城のビックリなしかけと、謎について。
土地に思い入れを持つよりも、目標に合わせて城を移す効率重視。

「天下布武」天下を武力で統一する、という意。


【那古野城】

【清洲城】信長22歳
 
平地で水に弱かった。
ふつうは防御のためくねくねにするところを、城までまっすぐな「大手道」が通る。


道の左右に家臣の屋敷を作り、殿は頂上てっぺん。上下関係をヴィジュアル化した。


【小牧城】信長30歳

小牧山に「城下町」の元祖を築いた。
城下町はそのまま、現代の街づくりに生かされているため、近代都市のルーツだった。


【岐阜城】信長34歳
 
濃尾平野が一望できる。
地下通路など、館群は迷路のようなつくりで、多くの客が招かれた→接待で味方を増やす意図。
12~15歳の家臣の息子を身近に置いて、主君を守るよう教育した。


【安土城】
 
八角形? 天主は7階建て30m。後の「天守閣」のさきがけ。当時は水に囲まれていた。

 
湖周辺には、ほかに3つの城を築き、1つが攻められたら、ほかの3つから援軍が送れる。
安土城が現存したのはたった3年。

信長の遺志は秀吉により「大阪城」に受け継がれている。

 
琵琶湖に「動く城」のごとき巨船を造らせた。


●盂蘭盆会のライトアップショー

「本能寺の変」の1年前、ひとつの催しがひらかれた。
色とりどりの提灯、松明で、あたりは真昼のように明るかったという(宣教師ルイス・フロイス「日本史」より

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「よみがえる幻の安土城」@歴史秘話ヒストリア

2014-02-23 20:27:17 | 映画
「よみがえる幻の安土城 ~最新研究 発掘された信長の謎~」
上記の回と多少ダブってたけど、さらにいろんなことが分かった。

謎1.いびつな形の天主?
 
どんな城も上から見れば正方形。でも安土城は八角形。


「信長公記」に記された部屋の総面積と計算が合わない。

答え1.中央に吹き抜け空間があった→遺跡調査の結果、中央からも礎石が発見された。


答え2.中央が部屋で、周りは廊下だった。


安土城天主は、高層御殿。
 





謎2.11mもの石垣をどのように積んだのか?

「野面(のづら)積み」自然石を積み上げる技法。3mが限界と言われる。

答え:4工程ほど作業を繰り返した。
 

その後、石を切る技術が生まれ、加工石は30mほど積むことが可能となるが、
「孕みだし」(石垣内部に雨水がたまり外側に膨らむため、随時、修復が必要)
安土城の石垣は、430年間、孕みだしが起きていない。





謎3.フシギな柱の跡

天主台の真下から2列に並んだ礎石が見つかった。石垣に密接した建物は異例。

記録物には「正月に大勢の見物客が押しかけ、信長自らが挨拶しに出てきた」と書かれている。
皆から見えたということは、高い場所から?
外国人が描いたスケッチから想像して、バルコニーのようなものだったのでは?

 

最後に信長自ら1人当たり100文(今の5000円)の見物料を直接手で受け取ったというw
観光地としての歴史も、安土城がはじまりと言われる。

信長を尊敬していた伊達政宗の仙台城も似たようなつくりとなっている。
 


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「戦国のプロフェッショナルたち ~己の腕で乱世を生きる~」@歴史秘話ヒストリア

2014-02-23 20:27:16 | テレビ・動画配信
「戦国のプロフェッショナルたち ~己の腕で乱世を生きる~」

【忍者】

伊賀・甲賀を含む紀伊半島一帯には山岳信仰の聖地で、山伏の修行の場だった。
厳しい山での生活や修行の経験を戦いの技に応用していった(信仰を戦争にしちゃダメじゃん
小さな村の集落が多く、小競り合いも多かった。

薬の知識、護摩焚きによる火の扱いにも長けていた。
幕府軍に攻められた時、地の利、火薬などの忍術で、軍を退け、その名が日本中に高まった。
戦国武将は忍者を使って情報収集、暗殺なども企てた。

「兵粮丸(ひょうろうがん)」

5~6粒で1日の栄養がとれたという。戦の時に携帯した(いいなあ、手軽に摂れる栄養食!



【国産の鉄砲】

「国友村」

この地域一帯は古くから武器、農耕器具をつくる鍛冶職人がたくさん住んでいた。
幕府から銃が届き「これとソックリのものを作れ」と命令された。

 
当時、日本には「ネジ」がなかったため苦心したが、
大根を欠けた刀で切り抜いたら、同じ形になったのをキッカケに真似した/驚

信長は、近江の大名・浅井氏を滅ぼして国友を手に入れ、銃を大量に作らせ、武田氏との戦で使用して大勝利を収めた。

 
その他にも、「脇差鉄砲」(小刀に見せかけて油断させる)や、「二十連斉発銃」(連射できる)なども作った。



【船の達人】

同盟関係にある毛利から援軍要請を受けた「村上水軍」は、小早船を駆使して信長軍をも打ち破った。

秘密その1:舟に乗るより潮に乗れ
 
複雑な潮の流れを読み、敵より上流にいることで攻めやすくなる。

秘密その2:舟は小さなものを使え。
 
小早船は、スピードが速く、小回りが利く。

 
楽器を使い分け、さまざまな陣営を組んで戦った。



【石垣の達人】
「穴太衆(あのうしゅう)」は、数々の名城の石垣等を造った。
今でもその子孫が修復等を行っている。



穴太の教え
「石の声を聞き、石の行きたい所へ持っていけ」


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「戦国ボス・武田信玄 最強の秘密」@歴史秘話ヒストリア

2014-02-23 20:27:15 | テレビ・動画配信
「戦国ボス・武田信玄 最強の秘密 ~ダメ上司から名将への道~」

【武田二十四将の結束】
 
信玄の父・武田信虎は、強い武将だったが、家臣から不評。飢饉の時も構わず隣国との戦を続けた。
信玄の養育係・板垣信方から、自ら指揮をとるよう勧められ、
父が甲斐を離れた際に追放し、信虎は二度と故郷に戻れなかった(あらら



しかし、信玄はまだ若く、家臣は言う事を聞かなくなり、昼間から遊ぶようになった。
信方にたしなめられ、家臣の意見に耳を傾けたり、働きをこまめに評価し褒美をあげたりして信頼を勝ち取った(モノで釣ったのか

【信玄の隠し湯】

戦で傷つき、疲弊した家臣を癒すのが目的。山梨を中心に、今も20ヶ所あまりある。



【軍師・山本勘助との出会い】

信濃を制圧し、越後の海産物、外交に使う港が欲しかった信玄。
村上義清に惨敗し、勘助から戦の心得を教えてもらう。

1.戦いのためのはかりごと
2.軍勢の配置
3.戦況の見極め

 
信玄は「気」を信じていた(フシギ・・・

 
勘助は、いわゆる呪術者的な軍師だった(なんだか官兵衛と似てる・・・



【川中島合戦】
 
断続的に12年も続いた。相手は、上杉謙信。
戦国時代とは言え、実際は、味方をムダに死なせたくはないし、軍事費も抑えたい。

 
上杉軍が妻女山に移り、武田軍は二手に分かれて奇襲したが、もぬけの殻。
もう一方の川岸にいた武田軍に奇襲をかけた上杉軍。


勘助は戦死。信玄もあわやというところで軍配に傷がついたという伝説が残る。
そこに別働隊が帰ってきて、上杉軍は退陣。両者引き分け。

だが、武田軍が勝利したという説がある。
幕府にムリヤリ信濃守に就任を認めさせ、金品・領地をあげて味方を増やしたため、実質、信濃は手中にあった。
家康を破り、全国制覇を前にして、信玄はあっけなく病死。53歳。


子孫に軍配が残されている。

信玄の残した言葉


「人は城
 人は石垣
 人は堀
 情は味方
 あだ(恨み)は敵なり」


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「上杉謙信の折れない心 ~義の武将 知られざる苦闘~」@歴史秘話ヒストリア

2014-02-23 20:27:14 | テレビ・動画配信
「上杉謙信の折れない心 ~義の武将 知られざる苦闘~」



【70戦2敗。この強さのワケ】

当時、「仁義礼智信」を重んじる儒教の教えは武士道に大きく影響した。
上杉は、宿敵の武田軍にも「塩を送る」という、「義の人」という評判だった。


わんぱく坊主だった少年時代。「林泉寺」で厳しい修行を受けて生まれ変わる。
父・為景の葬儀の最中に攻め入る敵軍に憤りを覚えた。
家督を継いだ兄・晴景は病弱なため、謙信が戦の指揮をとり、
「私利私欲で矢は取らぬ。道理のためにのみ戦をする」と宣言。



【上杉軍8千人のワケ】

現代の軍備の視点から見ても、非常に「機動性」にすぐれた部隊編成といえる。
兵が多いと部隊の動きが遅くなり、少ないと攻撃力が落ちる。

素早く動いて、敵を粉砕したら深追いはしない。
一撃して離脱するのは、負けるリスクをとらないということ。
謙信は自ら最前線に出ることで、刻々と変わる戦況を見極めて命令を下していた。

「入れ代わり戦法」
部隊長がヤラれたら、他の部隊長を素早くもぐりこませる。



【謙信は生涯、独身だった】

敵将の娘・伊勢姫に心奪われたことがあったが、信仰をとった。



【織田との親密な友好関係が突如壊れたワケとは?】
 
織田から親交の証として贈られたという「国宝 上杉本洛中洛外図屏風」。
きっかけは、織田が謙信に「鷹狩りのためのタカを譲ってくれ」と書状を送ったこと。
立場も歳も上の謙信だったが、快くタカを送った。

「遠交近攻」
遠くの相手と交わって、近くを攻める。つまり、お互い武田軍を敵とすることで意気投合していたと思われる。

織田は、決定的な服従を表すために、「息子を養子にしてくれ」と頼む。
しかし、織田が足利義昭を京都から追放したことが謙信の逆鱗に触れる。
信長は、自分より強い相手には下手に出るが、勝算があれば仕掛ける。

謙信は一気に攻め、七尾城を落とす。撤退する織田軍に追撃戦を開始。
雨で鉄砲が使えない上に、川の増水に溺れる者が多数出た。

しかし、謙信はあっけなく亡くなる。49歳。
少年時代に修行した林泉寺に埋葬された。
その亡骸は鎧をまとい、太刀を帯びていると伝えられる。
山門には、謙信が書いたとされる「第一義」の文字が残る。



信玄は「自分が死んだら、謙信を頼れ」と言い、
北条氏康は「ただ一人、謙信のみが骨になっても義理を通してくれる人だ」と言ったという。

 

山形県長井市には、謙信愛用の観音経が残されている。
これをお守りとして、つねにサラシの中に入れて戦に持って行っていた。


泥足毘沙門天像@山形県米沢市の法音寺


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「本能寺の変 明智光秀と家族の運命」@歴史秘話ヒストリア

2014-02-23 20:27:13 | テレビ・動画配信
「悲劇の父娘 反逆の果てに ~本能寺の変 明智光秀と家族の運命~」

光秀は、もともと貧しい武家の出だったが、信長にとりたてられ、
人生経験を生かして、交渉役として活躍し、数年で大きく出世した。
妻・照子との間に3女誕生。玉子は、絶世の美女と言われたのちの細川ガラシャ。

光秀は、再三の反対も空しく、信長より比叡山延暦寺の焼き討ち(なできり=皆殺し)を命じられる。
この時の死者は数千人、そのほとんどが無抵抗な人々だった。

出世とともに次々と縁談が舞い込み、長女は荒木村重の嫡男(!)、末娘は信長の甥・津田のもとへ嫁いだ。
玉子は、信長の仲介で細川忠興に嫁ぐ。




【本能寺の変・その謀反のワケとは?】
天下統一を目前にした、信長の急激な「組織改革」にあると言われる。
本能寺の変の数年前、家臣の大リストラを開始。その領地・ポストを息子たちに分け与えていた。
村重は謀反を起こした1人だが、信長はすべての謀反を武力で鎮圧。

本能寺の変を起こした時、光秀は67歳。
生死の境をさまようほどの大病をしたり、跡継ぎの十五郎はまだ元服前とあって、先々への不安が大きかった。
信長の家臣が各地に配置され、京に来た信長も少人数だったため、これぞ好機と思い、兵をあげて、たった2時間で討ち取った。
本能寺は、入念な工事をした、いわば小さな城。そこに攻め入るというのは、よくよく考えた作戦だったと思われる。

光秀は、その後、安土城を占領。早速、朝廷の使者を迎え、近畿を占領するなど、トップの座を固めようとする。



【家族の離散】
娘婿・津田は、襲撃を受けて戦死し首をさらされ、娘も行方不明になる。
玉子は、子どもを残して離縁される。



光秀は十五郎を坂本城に残して、重要な拠点・天王山に向けて出陣する。
本陣は、高台にある古墳を大規模に改造。万全の準備をする。





【羽柴秀吉の逆襲】

信長は生き延びたと偽り、「大義名分」を掲げて、毛利軍ほか援軍を募る。

「山崎の戦い」

勢いのある秀吉軍は、淀川沿いの湿地帯をも進軍。
形勢不利とみた光秀は、秘かに数人の供を連れて城を脱出する。
城に残した十五郎と再会して、兵力を整えようとするも、落ち武者狩りに遭い絶命する。

秀吉軍に包囲され明智一族は坂本城で自害。十五郎も命を落とす。
生き残ったのは、幽閉されていた玉子1人。後に復縁し、6人の子を産んだ。



【「明智軍記」における光秀像】

「信長を殺したのは、信長自身であって、明智光秀ではない」
謀反を起こした武士というよりも、さまざまな功績が伝え残っている。

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