花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

《5》 マンション住まいを止めたわけ、防犯対策

2007年02月23日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
 
 今後は特に高齢者と独身女性の一人暮らしが多くなると思います。
 高齢者も長生きの女性が多いわけだから、一人世帯の圧倒的多数は女性という事になるでしょう。(今日の朝日新聞に「中流家庭は崩壊した」という記事がありましたが、一人世帯も二極化が進むのでしょうか)

 私自身はこの十数年、通勤と子どもの通学に便利な札幌圏の○JR駅前のマンションに住んでいました。
 このマンションは駅前なのですが、札幌市の大きな公園に隣接し、敷地にも余裕スペースがあって、季節を考えた植栽がされ自然が一杯でした。また、便利で、プライバシーが守られる設計がされ、外部の音や隣家の生活音はほとんど入って来ないし、防犯上も安心で冬は暖かい。しかも管理組合がしっかりしているのですが、何か足りないのです。

 ここに退職後もずっといたら、ほとんど体を動かす事もいらず、コミュニケーションも無く、やがて老後、次第に外出が億劫になれば、生き甲斐も少なくなり、周囲から孤立し、早死にしそうだと思ったのです。

 それで3年前に、札幌近郊のあるJR駅から近く、例えこの先、年を取って車を運転できなくなっても、JR駅まで7分間位で歩ける距離に、丁度100坪の南西向きの土地を見付ける事ができたのです。
 それで敢えて終の住処を、除雪や庭の手入れに手間がかかるけれど、好きな庭いじりができ、太陽がたっぷりと射し込む戸建てにすることに決めたのです。
 
 今までのマンションに近い防犯性を確保するために、一階の窓ガラスは割れにくい防犯ガラス、一枚ずつに防犯ブザーをつけました。そして、基本的に道路から家が見えやすいようにと、塀は50cmの高さにして、その上に低めの生け垣を植えました。車庫も扉のある箱形を止め、道路から玄関などが見通せる様に、柱と屋根だけの車庫にしました。
 (セキュリティ会社と契約する方法も考えて見ましたが、侵入者の侵入後でないと来てくれないのなら、防犯の意味がありません。)
 玄関の鍵は防犯性に優れたツーロックに換え、TVモニター式インターホンを付けました。

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《4》 収納、電灯設置、コンセント、吹き抜けなど

2007年02月23日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
 どの部屋にもたっぷりと収納場所を確保し、地震時の防災と面積の確保、掃除のしやすさを考え、置き家具が少なくて良い様にしました。

 全ての電灯は壁や天井に貼り付けるタイプとし、地震の際の危険回避をしました。かって地盤が軟弱だった札幌のH区に住んだ経験から、天井から吊すタイプの電灯の危険性を身を持って知ったからです。
 コンセントは床から50cmの位置に、スイッチは床から110cmの高さに設置してもらい、車椅子になっても使いやすい様にしました。現在でもコンセントの位置は、腰をあまり屈めなくても良いので楽だと感じています。

 また、将来、どのような家族構成になっても暮らせるように、少し余裕のある間取りにしたのです。

 さらに、私は登山を続けて来たため、数年前から膝に自信が持てなくなったので、将来、階段昇降ができなくなった時の事を考えました。その結果、いつでも玄関ホールの突き当たりにホームエレベーターを設置できるよう、予め基礎や配線をしました。そうしておけば、二階のスペースを車椅子生活になっても利用できるからです。
 当面はそこを吹き抜けのギャラリーにすることにしました。
 (工務店からは、その空間の一・二階に納戸を二つ造ったらどうかと言われましたが、既に収納は十分あるし、仮にエレベーターを造る事になった時に、納戸のドアも二階の床も取り壊す事になれば不経済なので、それなら初めから吹き抜けのままにするのが良いと考えたのです。)
 
 外断熱工法の良さの一つは、屋根が断熱されているので、吹き抜けを作って場所に広がりを持たせれる事です。
 この家の吹き抜けは、エレベーター予定ホール、階段室、二階廊下とホール、二階の主寝室(下の写真)です。
 いずれの場所にも天窓があり、朝日が射し込んだり、一日中明るかったり、主寝室には夜も街灯や月の明かりが射し込む様になっています。
 下の写真左は、二階廊下上部の南東側天窓です。写真中は、二階主寝室の天窓です。ベランダの一部も見えます。写真右は、玄関ホール突き当たりに作ったエレベーター設置予定場所です。

   

 また、壁の断熱材の厚さ分、窓枠に奥行きがあるので、好きな花を飾って冬でも楽しめます。
ただ、地震の時に鉢が落ちる事を考え、カーテンの留め具を窓枠の下から15cm上がった位置につけて貰いました。気休めかも知れませんが、そこにスズランテープを渡していざという時の落下防止策としました。(これ一つ思い付くのに数日間、考えました。)
 下の写真左は、居間から見た北東の洋室です。写真右は、南西にある居間のベランダと南東方向にとった明かり取りの窓です。

   

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《3》 バリアフリー用のスペースを

2007年02月23日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
 各室ですが、一階の台所、食堂、居間は同一平面にした回遊式で、開放感と来客時、防災時の対応のしやすさを考えました。

 高齢社会に対応する国の施策は、従来の様に高齢者を施設に入所させるよりも、これからはできるだけ在宅で介護をする方向に転換しつつあります。その方が高齢者自身の生活の質(QOL)も上がるのです。

 それで私は、できるだけ長く自分の家で生活できるような、バリアフリーの作り方にしておきたいと考えました。
 段差がない事はバリアフリーの条件の一つですが、決してそれだけでは実現しません。何よりも一定の広さを確保して、車椅子でも生活できるような家にしたいと思いました。



 台所は、車いすでも自由に動けるように、現在流行のアイランド型を止め、従来の壁付けタイプを選びました。
 居間の隣に8.3畳の洋室を設け、私の終の生活場所と考えました。(この室は隣がトイレ、その隣が洗面浴室)
 どの寝室も8畳以上にして、ベットを置いたとしても三方を歩ける様にしました。(寝たきりになった時、医者、看護婦、ヘルパーや家族がベッド側に立てるように。また、その方が介助しやすい)

 下の写真は1坪タイプの浴室ですが、元気が出るレモンカラーの浴槽にしました。
 高齢になると掃除も面倒かなと考え、壁はでき上がるまでは不安だったのですが、汚れが目立たなくて掃除し易い色を選びました。また、台所の流し台前の壁も同じ色合いにし、洗面台もグレーの砂模様にしました。別に違和感は有りません。
 
    

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《2》 家の配置、基本形、暖房方式など

2007年02月23日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
    

 まず、建物の位置ですが、敷地は南西向きの中地なので建物をできるだけ北東に寄せました。しかし、北東側隣家との将来的な事を考えて、そちらは境界線からの位置を敢えて125cm離しました。
写真左は、前庭にコンクリートの塀を作っている途中です。右は現在の車庫と雪の庭を居間の窓越しに撮りました。
 
 家の屋根は降雪を配慮し、三角屋根にしました。雪を乗せて置く無落雪屋根は、長い間には雪の重さによって家に負担がかかると思ったのです。屋根には一気に雪が滑り落ちない様に、雪止めもつきました。
 
 家全体の形をできるだけ単純な直方体にして、断熱性、耐久性を高め、建築価格も抑えたいと考えました。

私は現在○○歳の一人暮らしで、体力も少し衰えて来ていますので、バリアフリーを考え、階段の段差は18.5cm、階段幅100cm、廊下幅は120cm、扉は全部82cm幅、浴室は1坪タイプにしました。

下の写真は階段下から見上げた明かり取りの窓です。下は一階食堂から、上は二階寝室からの明かり取りです。ガラスには飛散防止フイルムを貼りました。右のドアは台所に通じています。



 今冬の灯油価格の高騰を受け、暖房様式には一番悩みましたが、寒地住宅研究所研究員の講演を聞き、設備費、電気代を長期に見れば蓄熱式も電気温水方式も同じになると分かったので、最終的に初期の設備費用が安い電気ボイラーの電気温水システム暖房にしました。

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私が建てた外断熱・バリアフリーの家 《1》 工務店を選ぶ迄

2007年02月23日 | 暮らしと住まい・耐久消費財

 私の場合は半年間、北海道建築指導センターの指導を受けながら、自分で何十枚も平面図を書いて見て、何枚かを5人の指導建築士さんに時期をずらして指導して貰い、検討を続けました。

 幾つかの工法の業者が建てている最中の基礎や壁内部の断熱工法が分かる家を何軒も見せてもらい、最終的には外断熱法に決めて、相見積もりを取りました。
 結果的に見積もり額は、多少、高かったのですが、こちらの要望を良く聞いてくれた上に、4ヶ月間に図面を4枚書き直してくれ、その度に、膨大な見積書も作ってくれたO工務店を選びました。

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《8》 中国、インド

2007年02月23日 | 海外旅行 色々
 50歳代になってからは、中国、韓国、タイ、インドと、アジア地域に行くようになりました。
 西洋の先進国と違って東南アジア地域の発展途上国では、円の価値の大きさを知らされました。
 
 アジアで最初に行ったのは8月の中国でした。社会主義国を標榜している中国で、まさか乞食がいるとは想像していなかったのですが、田舎の農村に行くと、1ヶ月以上も入浴した事がない様な汚れた身体の子ども達が、私達に手を出す姿に出会いました。

 また、素晴らしい世界遺産の雲崗石窟寺院がある大同は、北京のエネルギー源となる石炭を産出する町ですが、戦時中、日本軍人の駐屯地がありました。
 添乗員から、日本人に対する治安が良くないからと、個人的な外出は禁止されました。
 帰国後、伯父が戦時中、大同の部隊にいたことを知りましたが、駐留当時、素晴らしい石窟寺院があることは知らなかったそうです。その石窟は規模も数も、数日前に見た龍門石窟を遙かに凌ぐ物でした。

 (北京から大同へは、8時間程かかる夜行列車に乗って行きました。中国の人達は夏休みのためか、普通列車に詰め込み状態で乗っていましたが、私達はコンパートメントの寝台列車でした。
 所が部屋に入った途端にその汚さに驚きました。ベットも窓側にあるテーブルも泥まみれだったのです。
 そんな列車に慣れていない私は、すぐに車掌に言って雑巾とバケツを借り、拭き掃除をしたのです。やっと座れる状態になった時、テーブル下に置いてあるお湯を入れるポットを見て、また、コルクの蓋の回りの汚さにびっくりしました。一生懸命洗面所で洗いましたが、あまり綺麗にはなりませんでした。
 「郷に入っては郷に従え」という言葉がありますが、あの時乗った寝台列車のその汚さに、私は我慢がならなかったのです。
 大同では、多くの家族が、山の中腹に開けた横穴を住まいとしている様でした。冬、温かいとは思いますが、まるで動物のような暮らし方をまだしている事に驚きました。)

 北京、西安近郊などへ行きましたが、文化大革命によって貴重な文化遺産が破壊されたり、保存に手が回らない状況が見て取れ、残念に思いました。
 (何故か『兵馬俑』だけは、莫大なお金を掛けて展示されていました。ここで兵馬俑を発見した農民の最後の生存者という男性と一緒に、写真を撮ることができました)

 人々は真夏の炎天下で地面にすいかを積み上げ、簡単な屋台で、蠅が飛び交う中、豚肉を売っていました。家庭には、まだほとんど冷蔵庫などは普及していない様子でした。
 中華料理は大抵、高温の油で処理し、味付けに酢を使う料理ですが、その時私は、その調理法が実は食中毒を防ぐために昔から中国人がして来た知恵なのではないだろうかと考えました。

 北京郊外の万里の長城の出店でこぶりの桃を買って食べました。日本円で一個40円位の桃でしたが、実が硬めでりんごの様にぱりっとした歯ごたえでとても美味しかったです。帰国後スーパーに行くと、お盆用に大きな桃が1個200円で売られているのを見て、私はそれからしばらく桃を買えなくなりました。
 

 その翌年の冬に行ったインドでは、1億人を超える数のホームレスが、家族単位でビニールシート上で路上生活をしている姿に、大きな衝撃を受けました。
 あちこちで私達に手を出す子ども達や、赤ん坊を抱えた女性の物乞いに応じたりすると、わっと大勢の物乞いに取り囲まれてしまいます。
 私は、悪いけれど見ない様にしました。インドは、私達一人二人の善意や力ではどうすることもできない様な極限の貧困に充ち溢れていました。
 その反対に、かってのマハラジャは、広大な敷地と豪華な家を有していて、それらがホテルになっていた所もありました。
 生まれながらに所属する社会階層がカースト制度によって決められている社会の、想像を絶する格差の存在に胸が痛みました。

 また、日中、大勢の人が行き交う街中でも、牛や豚、あひるやクジャク、猿などの動物が自由に放されていて驚きましたが、夜にはちゃんと飼い主の元に返るのだと聞きました。私はちょっとした物陰に沢山あるホームレスの排泄物を餌にしているのだろうなと思ったりしました。
 
 インドの中西部ムンバイのホテルで、朝、焼いて貰った目玉焼きには驚きました。黄身がほとんど白身に近い色をしていたのです。
 知識では、卵の黄身の色は鶏に与える餌の色で決まると知っていましたが、実際に私達が普段食べている鶏卵の常識とはかけ離れたものでした。
 日本で売られている鶏卵は、私達消費者が、最も新鮮で美味しそうに見える色にするため、鶏に食べさせる餌に色素を加えて調整している事を思い返しました。
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《7》 アメリカ、カナダ

2007年02月23日 | 海外旅行「北アメリカⅡ」ニューヨーク、ワシントン・ボストン
 アメリカ東海岸を訪れた8月の旅では、ニューヨークの近代美術館に次いで行ったボストン美術館で、素晴らしい日本美術の部屋の展示に感動しました。

 また、小学1年の時に雑誌の写真を見て以来、ずっと憧れだったナイヤガラの滝で「霧の乙女号」に乗って滝壺の近くまで行きました。夜は、アメリカ側から渡りだした橋の途中で、お金を払って国境を越える手続きをし、カナダ側に渡り、綺麗にライトアップされた姿と轟音を堪能しました。
 ホテルがあったナイヤガラの傍の町で、当時の北海道ではまだ見かけない大型ショッピングモールを初めて見ました。

 翌日はバスで国境を越え、カナダ東部のケベックに行きました。ケベックの公用語は英語とフランス語ですが、歴史的にフランス移民の生活感情が残っていて、アメリカからの独立運動も何度も行われて来た独特な気風の土地である事を知りました。
 
 また、当時、アメリカは、日本製電気製品をたたき壊すなど、挑戦的な日本製品バッシングをしていましたが、その国内には根深い民族問題や深刻な経済格差を抱えていました。
 私は、アメリカは自国の問題には目をつぶり、どうして日本には内需拡大の他、国政に対する細かな要求を強行に迫れるのか、不思議に思ったりしました。

 
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《6》 スイス、西ドイツ、オランダ

2007年02月23日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅢ」スイス・チェコ
 幾つもの国に国境で囲まれ、周辺国から攻め続けられた歴史を持つスイスでは、国民皆兵政策による国を上げての特異な生き残り戦術を取っています。
 また、有事の時を考え、国民には全家庭で3ヶ月間の食料を備蓄する事も法律的に義務付けられ、国としては常時3年分の食料を備蓄していることなどを知り、国際的な緊張状態の中では国民の命綱である食料の自給率をいつも高く維持することの大切さを教えられました。

 パンの原料の小麦は、天然の冷蔵庫としてアルプスにトンネルを掘り、片方の入り口から今年の小麦を保管し、反対の出口から3年前の小麦を取り出しているそうです。スイスのパンが不味いと言われる理由が分かりました。
 
 西ドイツのミュンヘンでは、商業事情とスポーツなどの社会教育を、オランダでは酪農業と干拓事業を、そしてフランスでも社会教育などの研修をしました。

 ミュンヘンの市庁舎前では、もうクリスマス市が開かれていて大勢の買い物客で賑わっていました。デパートはクリスマス一色に豪華に飾り付けられていました。
 ミュンヘン市は札幌と姉妹都市なので、社会教育委員会の担当者と懇談した時、北海道から行った私達はグリューワインで歓迎を受けました。
 このワインは、赤ワインを温め、熱い紅茶と砂糖を適量加えて作るホットワインです。ドイツでは風邪を引いた時によく飲み、身体が温まって治るのだそうです。私は初めて飲んだのですが、甘くて美味しく、ついおかわりをしてしまいました。
 また、社会教育委員会の人の話では、毎年どちらかの国で行われる少年サッカー交流試合では、札幌のチームを配慮して、ミュンヘン市は2流のチームを出しているという裏話も聞かされました。

 ミュンヘンで私は履いていったローヒールの靴のかがとを傷つけてしまい、仕方なくスーパーマーケットの靴売り場に行きました。サイズを聞かれて、23cmと答えると、「その靴はここにはありません。下の階の子ども靴売り場に行って見て下さい」と言われたのです。
 なるほどと思いながら下に下り、何とか大人っぽく見える靴を見つけて買いました。その靴は内側にもしっかりと皮が張ってあり、とてもがっしりと作られていました。帰ってからよく見るとそれはイタリア製の靴でした。
 この事があってからは、外国に行く時、私はカバンに予備の靴を一足、入れるようになりました。
 
 オランダの酪農家を訪ねたのですが、日本と違ってオランダでは、一頭で肉も牛乳も両方利用する事ができる牛を飼っていました。もの凄く大型の種牛も一頭いました。
 その後、北海の干拓事業の記念館に行ったのですが、海抜の低いオランダの大規模な干拓事業が、実は秋田県八郎潟干拓の技術的な支援を受けて行われた事を知りました。
 またオランダでは、多くの人の交通手段として自転車が使われていました。学生が背中にカバンをしょって自転車を走らせる姿を見て、日本でもこの様な背負える通学カバンが普及するべきだと思いました。

 アムステルダムでダム街の「飾り窓の女性」を視察した夜は、同じ女性の一人として考えさせられ、なかなか寝付けませんでした。
 友人と一緒に覗いた大人のおもちゃ店で、児童ポルノ雑誌が置いてあり、写っていたのは当時のベトナムのボートピープルではないかと思う小学生位の子ども達で、胸が痛みました。
 でも、当時の日本の書店では、そのような本が子どもでも誰でも見られる様な売り方がされているのに比べれば、ヨーロッパの国々では、一つの雑誌に一緒くたに記事を掲載するのではなく、内容によって本が種類分けされ、ポルノグラフィーは、一般書とは別な場所に置かれている点は良いなと思いました。

 また、レストランの昼食に出された揚げ芋は、日本でなら畑で捨てられてしまうような小粒の芋でした。オランダではそういう芋もちゃんと流通していたのです。私は、日本の美術品の様に、大きさ、形、色つやが揃い、虫にも食われずに整然と綺麗に並べられて売られている野菜や果物に、大きな疑問を持ちました。
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《5》 イギリス

2007年02月23日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅠ」ポルトガル・英国

イギリスでは、まず「大英博物館」を見学。収蔵された世界中の貴重な歴史的展示品に圧倒されました。
そこには大航海時代から抱えた多くの植民地などから、強権的に収集した貴重な文化遺産が詰まっていました。ギリシャが返還を要求しているパルテノン神殿のレリーフも一隅を飾っていました。
 
訪問当時のイギリスの経済状況は決して芳しくなかったのですが、ガイドの説明で、かってイギリスの植民地だった国々から多くの難民を受け入れなければならないのも原因の一つだと知りました。
日本は難民の受け入れに厳しい国として知られていますが、今後、外国労働者の受け入れなど、どうして行くべきなのかが課題だと思いました。
 
ロンドンでは、同じ町から参加した女性と二人で、ロンドン郊外の「母子家庭」に1泊だけホームスティをして、イギリスの庶民の暮らしを体験できた事も大きな収穫でした。
食事は昼食(場合によってはブランチ)がメインで、夕食は簡単に済ませるのです。
行った日に最初に出された夕食は、「コーン入りマッシュポテト」一皿と「オレンジジュース」1杯だけでした。正直、夕食としては貧弱すぎるとびっくりしました。
翌朝は「パン」と「スクランブルエッグ」「紅茶」でした。昼は「チキンソテー」と「ポテトサラダ」「コーヒー」だったと記憶しています。やっぱり昼食が一番、品数もボリュームもありました。

11月下旬のロンドンは気温も低く、寒くなって来ていましたが、その家の居間に置かれた電気ストーブに火はなく、赤い炎の絵が張ってあるだけでした。
 母親は、その夜、二人の小学生の娘を階段下の狭い場所に寝かせ、娘達のベットを私達に貸してくれました。
 
はお土産用に日本から、折り紙と簡単な折り紙の本を持参して行って、二人の子どもに教えました。見ていた母親から「子どもは折り紙をどこで習うのか」と聞かれたので、「親や学校などで習う」と答えると、「父親もできるのか」と言います。それで「日本人なら誰でも鶴位は作る事ができます」と答えたら、「日本人は箸を使ったり、折り紙をするので頭が良くなるのですね」と言われ、的を射ていると思いました。
 
『ボランティア』を世界で初めて提唱し、国の政策にも取り入れさせた博士から講義を受けました。
日本にも来たことがある博士は、その時、私達に「新潟沖地震の時、地震の中で日本人が真っ先に考えた事は何ですか」と聞きました。「自分の命を守るために逃げる事だけですか」「他の人の事は考えないのですか」と、私達は厳しく問われました。
 
「阪神淡路大震災」以降、日本でも「ボランティア」の存在が関心を集めていますが、イギリスでは既に博士の提唱で、公務員は政策作りのために実際にホームレスを体験したり、学校や病院、各種の社会施設、公園、駅などで、多くのボランティアが活動していたのです。また、アフリカ諸国でも大勢のイギリスの若者がボランティアとして行き、活動していると聞きました。
「ボランティア」とは「自ら進んでする行為」なのですが、イギリスでは、それに打ち込む人には全くの無償という事ではなく、生活費と住居を提供する事が多いと知りました。だから半年~数年間、仕事を休んでボランティアする人も大勢いるのだと思いました。
 
ロンドン郊外の小学校を視察した日、日本人を含めた何人かの母親達が、授業の助手のような立場で「ボランティア」として来ていました。放課後のクラブ活動的な事にも参加するそうです。
 
なお、小学校の授業の様子ですが、子ども達は自分で作った時間割に沿って勉強をします。先生は「勉強」を教えるのではなく、「勉強の仕方」を教えるだけなのです。だから教室では、一人一人が違うことを実に静かに勉強していましたし、先生はこどもから何か聞かれると、それに答えていました。ある子は算数、ある子は国語、ある子は絵を画くという具合です。

教室の後ろには勉強に必要な各種の図書類も置いてあり、何か調べていた子どももいました。
私の知っている日本の子どもと違い、全く静かに物事に集中している姿を初めて見て、私は子どもの別な姿をそこで再発見した思いでした。
 
また、その小学校の場合は、午前の部と午後の部の二部制になっていて、別な子ども達が昼からやってくるのだと言っていました。  
低学年の教室の人数はわずか十数人でしたので、当時の日本の大人数の教室とはまるで比べ物になりません。

階層的に貧しい親達が多いというその学校では、黒人、アジア人、欧米人など、色々な人種と思われるこども達がいて、イギリスが多民族国家だということを示していました。
短時間でしたが、この公立小学校訪問で、私は貴重な体験をする事ができました。
 
また、ロンドン市内の交差点にある「信号機」が、その頃の日本の物と比べ、珍しかったです。
日本では当時まだ、「信号機」と言えば3色のものだけでしたが、「ロンドン」では「3色の信号」の下に歩行者用信号機が縦型に付いていて、止まれは×印が赤く点灯し、進めは人が歩く絵が明るく光って浮き出る仕掛けでした。 これだと色弱者でも絵や形のライトで正確に見分ける事ができ、とても良いと思いました。
日本でも最近は、多様な生活場所や用具に、障害のある人にも使いやすい「ユニバーサルデザイン」が普及して来ましたが、その先駆けだったと思います。さすが、ゆりかごから墓場までの伝統を持ったお国柄でした。
 

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《4》 研修で見たフランス

2007年02月23日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅢ」フランス・ギリシャ
 当時、私が住んでいた町は、毎年、町民を2人ずつ、自己負担は少額で、残りを町が助成し、海外研修に派遣していました。(その年は、周辺町村から派遣された17人が集まり、グループを作って研修に出掛けました) これに私も応募し、11月の中旬にフランス、イギリス、ドイツ、スイス、オランダで、2週間研修する貴重な機会を得たのです。

 フランスのルーブル美術館では、日曜日の観覧が無料である事、また、世界的に貴重な美術品の大半が、ロープ一本張られることなく展示されていた事に驚きました。(ただし、何かあれば一斉に全部の扉が自動的に閉鎖される仕掛けになっていました。他の美術館の事情は解りませんでした)
 また、凱旋門とエッフェル塔の上に登って、パリの放射状の街作りを確認しました。
 
 フランスの学校事情はガイドの説明で知っただけです。
 当時の高校では、教師は生活指導教師と教科指導教師に別れていました。クラス担任は生活指導の責任が済めば帰宅します。
 日本と違って学校で部活動はありませんから、教師に指導の負担もありません。部活動は全て、社会教育として別な施設で指導されていました。
 ガイドの話では、フランスの文部省は、給料を高くするから全員の教師が、生活指導も教科指導もやって欲しいと教員組合に対して提案したのですが、組合は反対しているそうです。その後どうなったのかは知りませんが、考えさせられる話しでした。

 公的な学校の生徒達には日本の様な制服は無く、思い思いの服装と髪型、化粧やピアスも自由な様子で通学していました。ガイドの話では、極端にふさわしくない生徒には注意するとの事でした。

 夕方、ある社会教育施設を見学しました。便利の良い町の中心にあるビルの中でしたが、一般人に混じって若い学生らしき人も見えました。当時のパリでは柔道が人気だということでした。私達は、丁度活動していたエアロビクスを見学しました。
 
 パリ郊外のベルサイユ宮殿の見学では、余りに豪華な贅の限りを尽くした建物に、王侯貴族達の生活振りが想像できました。私は、だからやっぱり、必然的に、フランス革命が起きたのだろうと思いました。
 革命当時のフランスでは、広大な土地や建物を持っていた貴族や王侯達は納税を免れ、苦しい労働に明け暮れていた多くの農民と商工業者だけに税が課せられていたといいます。その税金も農作物が不作続きでも安くはならなかったのですから。

 その夜、夕食を終えてから仲間3人(一人は男性)で、シャンソンを聴きながらお酒が飲める「シャンソニエ」に行く事にしました。そこに行きたいと言い出したのは、シャンソンが好きな私でした。ガイドブックの地図を見ると、昼間行ったノートルダム大聖堂の近くでした。
 ある建物にその店の入り口を見つけて入って行くと、階段を下りた地下に案内されたのです。そこは天井がむき出しのコンクリートで、低いドーム状に作られている30㎡位の狭い場所でした。粗末な木製の椅子と机がわずかな数置かれていて、私達は後方の席に案内されました。
 ウエイターが来て、壁の落書きを示し、ここはフランス革命の時の牢獄で、落書きは囚われ人が爪でひっかいて残したものだとそれとなく言いました。女性と男性の歌手が歌った何曲かのシャンソンを聞いてから、時計が10時を回ったので出ることにしました。
 すると席を立った私達にウエートレスの様な女性が「ちょっとした展示物があるけど見ませんか」と声を掛けて来たのです。
 折角来たのだからと、私達が付いて行くと、裸電球で照らされた暗い通路の突き当たりに10㎡位の部屋がありました。そこには裸電球の明かりの下に、革命当時、実際に使われたという色々な武器や道具が並べられていました。ギロチン台の前では「切り落とされた首は、この下の籠にごろんと落ちたのさ」と恐ろしい顔を作り、ゼスチャーをしながら説明します。また、十字軍の遠征時に妻に与えたという鉄製の貞操帯の前では、「ちゃんと合い鍵があったのよ」などと言います。
 気分が悪くなったので三人で顔を見合わせて出る事にしました。
 その時初めて気づいたのですが、入り口の扉はロックされていて、男の人がその前に立っているのです。すると女性は「金を払わないとここから出さないよ」と低い声で私達に言ったのです。私達はすっかり動揺し、慌ててそれぞれの財布からお金を渡しました。いくら渡したのか思い出そうとしても思い出せないのです。
 やっと解放されて地上に出た私達が見たのは、月明かりの下で異様な威圧感を持ったノートルダム大聖堂の姿でした。心臓をどきどきさせながらタクシーを拾い、勇んでホテルに戻りました。
私が初めて、見知らぬ外国で個人の夜間外出の怖さを知った日でした。
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《3》 初めてのフランス

2007年02月23日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅢ」フランス・ギリシャ
 友人を誘って、1月のフランス・イタリアのツアーに参加しました。
 フランスのレストランで面白い経験をしました。友人達と「グリーンサラダ」を注文したら、サニーレタスだけが入れられた小鉢にフレンチソースがかけられて出て来たのです。日本では必ず胡瓜やトマトなど、他の野菜も盛り合わせて出されるので驚きました。見た目の美しさも大切にする日本の食文化との違いを感じました。
 また、当時の私は、サラダと言えばマヨネーズソースで、フレンチソースにはほとんど馴染みがありませんでした。それでレタスにかかっていたソースの黒こしょうが直ぐには分からず、細かな土か何かではないかと不審に思ったりしました。
 また「ハンバーグ」を頼んだら、洋皿の半分にハンバーグ、残り半分には山盛りのフレンチポテトだけという状態で出て来たのにも驚きました。
 
 勿論ジャガイモの原産地は標高4000mもあるアンデス高地です。ヨーロッパにはインカ帝国を征服したスペインが持ち帰り、やがてドイツやフランスで救荒食物として普及し、ヨーロッパにペストが大流行した時の市民の命を救った食品として、日本では戦時中の代用食として良く知られています。
 緯度の高い場所にあるヨーロッパでは、どの国も冬場の生野菜は特に不足しがちです。それで、フランス人が「大地のりんご」と呼ぶ位、加熱しても含有量の多いビタミンCは壊れにくいし、高血圧を抑制するカリウムやビタミンBをたっぷり含むジャガイモを多食するようになったらしいです。
 道理で、フランスと言えばフレンチポテトやポテトサラダだし、ドイツ料理と言えばソーセージとジャガイモ料理が定番、イギリスでもマッシュポテトが家庭料理の主役です。

  考えてみると、日本の一番北にある北海道でも、毎年冬場には新鮮な野菜が不足して価格は高くなります。地元で美味しいじゃが芋が沢山取れるのに、評価は高くありません。本当は、年中価格が安定していて、低温や強風にも強く、且つ保存性に優れ、栄養価も高いジャガイモを、私達は、毎日もっと利用すべきなのだと教えられました。
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《2》 ポルトガル・スペイン

2007年02月23日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅠ」ポルトガル・英国
 初めての外国旅行で異文化の体験に大きな魅力を感じた私は、続いてスペイン、ポルトガルに行きました。

 1月になって直ぐ、ツアーでポルトガルとスペインへ旅行しました。
 ポルトガルでは、かっての大航海時代の名残を発見のモニュメントなどで目にしました。「カステラ」はポルトガル人によって日本に伝えられた菓子ですが、天ぷらの屋台があり、「テンプラ」がポルトガル語である事を知りました。
 また、今も残されている巨大な水道橋には驚きました。

 当時、日本政府は、退職後の熟年者にポルトガルへの移住を勧めていました。物価は安く気候も良いのですが、実際には言葉の壁があって、移住して来た日本人達の定住には困難があるとガイドに聞かされました。
 私は、完全に移住するのではなく、日本の住まいを残したままで好きな国に一定期間滞在して生活し、観光する。日本に帰りたくなった時は、いつでも帰れるようにする方法の方が、無理なく老後を楽しめると思いました。

 スペインでは、広大な大地に続くオリーブ畑とコルクの木、ひまわり畑を見ました。何処へ行ってもオリーブ油で料理した独特な臭いのある料理が出ましたが、腸の弱い私は、たちまち体調を崩してしまい、パンと水しか食べられない辛い毎日が続きました。

 名物料理の平鍋を使って魚介類と共に米を炊き込むパエリヤは、米の加熱が不十分ないわゆるめっこ飯で、お世辞にも美味しいとは言えませんでした。
 ガイドに聞くと、スペインでは米を硬めに炊いたご飯が好まれ、パエリヤは沸騰後15分位しか加熱しないと知りました。(帰国後調べた日本の料理の本にも、加熱時間は15分と書いてありました)
 私達が炊くご飯は、沸騰後20分間、100度を保って米を加熱し、消火後も10分近く蓋をしたまま蒸らすので、ふっくらと芯のないご飯になるのです。こんな訳で、楽しみにしていた本場のパエリヤにはがっかりしました。
 後日、ガイドからお土産用にパエリヤの色づけに使うサフランの花芯が紹介されました。心臓を強くする効能もありますが、とても高価なものでした。
 
 バスでセビリヤの町を通った時の事です。スペインでは、キリストの誕生が、新年になって数日後に到着した黒人使節によって知らされたとして、この時期にクリスマスが行われていました。
 協会の近くの道路には人が溢れ、それぞれが食べたアイスクリームや菓子などの袋が道路にどんどん捨てられて、本当にひどい状態なのです。私は見たことのない様なゴミが溢れた町に唖然としましたが、良くした物で、ゴミ収集車が来るなりゴミを吸い取って行き、短時間に町はすっかり綺麗になったのです。この時、ゴミを捨てる人と掃除する人を見て考えさせられました。

バルセロナでは、まず聖家族教会を見学しました。この時も一つの塔の狭い階段を最上部まで上り、小さな窓から向かい側の塔やバルセロナの町を眺めました。
 翌日の自由行動では、迷うことなく真っ先にピカソ美術館に行きました。外観からはそれとは分からない様な住宅街にありました。
 ここにはピカソの青年期からの作品が製作時代順に並べられていて、ピカソも最初は普通の絵を描いていたのだと再認識しました。やがて青の時代といわれる青い絵の具を多用する絵へと変わり、それからキュービズムへと画風が変化していく様子が良く分かりました。
 その後、マドリッドのプラド美術館の別館で、有名なピカソの「ゲルニカ」を見ることができました。壁一面に描かれた大きなその絵は、絵を良く思わないドイツの人達から破壊されない様に、防弾ガラスで覆われているのだと説明を受けました。
 そこを出ると美術館の前でゲルニカのキーホルダーを売っていました。かなり重い金属製でしたが、3個1000円でお土産に買い求めました。

 
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私の外国旅行体験《1》 前書き・ギリシャ

2007年02月23日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅢ」フランス・ギリシャ
 私は早くに父と母を亡くしたので、30代になる前に既に帰るべき実家がありませんでした。。
 それで休暇があると、子どもを連れたりして国内外旅行をするようになりました。

 外国旅行では、5歳以上の子供は大人と同額なので、子連れの旅行が多かった私はいつも旅行貧乏でした。
 でも、子供と同じ体験を共有できた事、感受性の豊かな時期に子どもに広い世界の存在を知らせた事は良かったと思っています。
 子ども達は既に自立していますが、下の子は働くのは旅行資金をつくるためだ等と言います。仕事の性格にもよると思うけれど、自分の能力を生かして自己実現したり、社会貢献のために働き、結果として収入もあると考える私とは、今でも意見がよくぶつかります。

 次に、これまでの外国旅行の体験と思い出を書きますが、かなり年数が経っているため、場合によっては勘違いしている箇所があるかも知れません。もし気づきましたら、是非、お知らせ下さい。



 
 二十数年前、私が初めて小学5年の息子を連れて訪れた外国はギリシャでした。
 当時は東西冷戦が続く時代でしたから、今のように成田からロシア上空をヨーロッパに飛ぶ事は不可能でした。
 その時ギリシャへは、羽田からアリタリア航空で香港、バンコク、デリー、カラチとトランジットを繰り返し、何と30時間もかけてやっとローマに着き、また乗り換えてアテネへ入るという、今では考えられない様な具合が悪くなる程の長旅をしました。(カラチでは何人もの女性が小さな箒とちりとりを持参して乗り込んで来て、機内の狭い通路にへばりつくようにして掃除をして行った姿が忘れられません)

 私は民主主義の発祥国を見たかったのですが、実はパルテノン神殿に登れた人は一部の男性だけだったし、参政権は高額な税金を納める事ができた一握りの市民だけにあったと知りました。
 パルテノン神殿を始めとして、オリンピック発祥の運動場、古代神殿に水洗トイレもあったコリンソスの遺跡、シュリーマンが黄金のマスクを発見した山奥のミケーネの遺跡、素晴らしい音響効果に作られているエピダウロスの円形劇場も見学しました。そこでは今でも毎年、オペラが上演されていると聞きました。
 自由行動日、ホテルの前が国立考古学博物館だったので会館を待って入りました。ギリシャ以前の時代からの彫像やミケーネ遺跡の黄金のマスクなどが沢山並べられていました。水中から見つかったという異様にウエストがくびれた小さな女神像を見て、どんな意味でこんなにウエストが細いのか疑問が起きました。

 当時、ギリシャは社会主義国でしたが、個人的にお願いして、ツアーのバスの運転手夫妻に家を見せてもらいました。ステンレスはギリシャ国内には無いのでドイツから輸入しなければなりません。そのため、そのアパートの階段や台所のシンクは、神殿と同じ本物の大理石でできていました。新婚の若奥さんの話では、硬い大理石の台所では、うっかりするとガラスのコップが割れるのだそうです。私達は銀製のカップで持てなされました。

 その帰路、南イタリアにも寄り、紀元間もない頃に火山の爆発で埋まったポンペイの遺跡を見て、水道設備、排水溝、銭湯など、既に近代都市の原型ができていた事にびっくりしました。当時はまだ1/3しか発掘されていなかったのですが、慌てて全部発掘してしまうと風化が進み、後世に良い状態で貴重な文化遺産を残せなくなるからだという説明を聞き、感動しました。駐車場で初めて胡椒の木を見て、嬉しかったです。
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