先日、遠くに住む旧知の友人から電話があった。
彼女は十数年前にある癌の手術を受けたのだが、その後、内臓のあちこちに転移し、数年前から予断を許さない症状を抱えている人だ。
何でも彼女が末期の緩和医療と看取りをしてもらおうと期待していた医師が、4月から他の町に行って開業することになり、凄くショックだと言う話を伝えて来たのだ。
実は彼女には、精神疾患のために自立できない40歳に近い1人っ子がいる。
自宅でずっと看て来たのだが、二親が死んでしまったら一体誰が子どもの面倒をみてくれるだろうかと、自分の事よりもそれが悩みの種なのだ。
それで私に向って、「子どもの心配がない人が羨ましい。」というのだ。
私も彼女の苦悩は理解している積りだが、やはり彼女から見れば、本当には分ってくれていないと思うのだろう。
心身障害の子どもを早くから施設に預けている別の友人(不思議と私には同様の友人が多くいるのだ)に言うと、「その子の将来を考えたら、親が元気な内になるべく早く施設に預けて、その生活に慣らした方が良いのに。」という。
生きている間、できるだけ自分の傍に置いて、親子の共通の時を刻みたいと思っている彼女の気持ちも分かる気がするし、また別の友人がしてきた事もわかるので、私は彼女にどう言って上げたらよいのか分らないのだ。
話は変わるが、昨夜、BSTVでイギリスの「ヤングケアラー」について報道していた。
番組では、家庭内で障害のある親や兄弟姉妹の世話をしているイギリスの子ども達の生活が取り上げられていた。
自分の時間が持てず、子どもらしい遊びや友達関係も持てず、ストレスがたまり、学校でも孤立しやすいのだという。
そんな子ども達が集える場所を作って、援助している女性が出て来た。
時々そこに来て、同じような生活を余儀なくされている仲間と過ごす内に、子ども達に笑顔と共感、精神的な安定が出て来ているという内容だった。
かって「ゆりかごから墓場まで」といわれる社会福祉政策がなされていたイギリスの現状を知って、私は愕然としたのだった。
認知症や寝たきりの高齢者、学齢期前の子ども、重い病気や障害を持っている家族の養護と介護を誰がどのようにするかは、小家族が一般的になった日本の社会の大きな課題なのだと強く思う。
彼女は十数年前にある癌の手術を受けたのだが、その後、内臓のあちこちに転移し、数年前から予断を許さない症状を抱えている人だ。
何でも彼女が末期の緩和医療と看取りをしてもらおうと期待していた医師が、4月から他の町に行って開業することになり、凄くショックだと言う話を伝えて来たのだ。
実は彼女には、精神疾患のために自立できない40歳に近い1人っ子がいる。
自宅でずっと看て来たのだが、二親が死んでしまったら一体誰が子どもの面倒をみてくれるだろうかと、自分の事よりもそれが悩みの種なのだ。
それで私に向って、「子どもの心配がない人が羨ましい。」というのだ。
私も彼女の苦悩は理解している積りだが、やはり彼女から見れば、本当には分ってくれていないと思うのだろう。
心身障害の子どもを早くから施設に預けている別の友人(不思議と私には同様の友人が多くいるのだ)に言うと、「その子の将来を考えたら、親が元気な内になるべく早く施設に預けて、その生活に慣らした方が良いのに。」という。
生きている間、できるだけ自分の傍に置いて、親子の共通の時を刻みたいと思っている彼女の気持ちも分かる気がするし、また別の友人がしてきた事もわかるので、私は彼女にどう言って上げたらよいのか分らないのだ。
話は変わるが、昨夜、BSTVでイギリスの「ヤングケアラー」について報道していた。
番組では、家庭内で障害のある親や兄弟姉妹の世話をしているイギリスの子ども達の生活が取り上げられていた。
自分の時間が持てず、子どもらしい遊びや友達関係も持てず、ストレスがたまり、学校でも孤立しやすいのだという。
そんな子ども達が集える場所を作って、援助している女性が出て来た。
時々そこに来て、同じような生活を余儀なくされている仲間と過ごす内に、子ども達に笑顔と共感、精神的な安定が出て来ているという内容だった。
かって「ゆりかごから墓場まで」といわれる社会福祉政策がなされていたイギリスの現状を知って、私は愕然としたのだった。
認知症や寝たきりの高齢者、学齢期前の子ども、重い病気や障害を持っている家族の養護と介護を誰がどのようにするかは、小家族が一般的になった日本の社会の大きな課題なのだと強く思う。