≪ドウロ川クルーズ≫
私達は「サンデマンぶどう酒製造所」見学後、目の前の船着場からチャーターした中型船に乗り込み、ドウロ川を大西洋とは反対側に向かって1km程上り、Uターンしてまた船着場に戻った。
その間、船は、最初に「ドン・ルイス一世橋」の下をくぐり抜けた。
この橋は、1889年のパリ万博に合わせて建造された「エッフェル塔」(高さ312.3m)の建設者ギュスターヴ・エッフェルの弟子の一人、テオフィロ・セイリグが設計し、1886年に完成した二重橋である。
上層部は395mの長さがあり、下層部は174mの長さになっていて、現在上層部はメトロと歩行者が、下層部は自動車と歩行者が通行している。
下船後、私達は下層部を歩いて渡ったが、堅牢でしかも美しい橋だった。
その先にも2本の橋があったが、様式が違っていて興味深かった。
川を挟んで南北の町の雰囲気はまるで違っていた。
≪エンリケ航海王広場≫
「ドウロ川」クルーズを終えてから、バスで「エンリケ航海王」広場に行った。
彼は、1394年にアヴィス王朝を開いたジョアン一世の第5子に生まれた。「エンリケ航海王」と呼ばれるようになったが、自分では航海をしなかった。しかし、探検家の航海士たちのスポンサーとして活躍し、1419年には、モロッコ沖の「マディラ諸島」を発見して植民地とする事に貢献した。
また、1420年にキリスト騎士団の指導者となり、その莫大な資金をキリスト教の布教と、当時まだ未知だったアフリカ西岸を航海させるスポンサーになって、引き続きシオラレオーネ当たりまでの大西洋航海の道を開いたと言われている。
1460年に彼が死んだ後、ポルトガルが喜望峰を回ってインド航路を開発し、香辛料や莫大な金を得る事になったその基盤を作った王子なのである。
銅像は傾斜地の広場の真ん中にあった。傍に赤と白の山茶花が咲いていた。
≪発見のモニュメント≫
ついでに観光最後の日に行ったリスボンの「発見のモニュメント」に触れたい。
首都リスボンの大西洋に流れ込む大河、「テージョ川」の川岸にある巨大建造物が、1940年に国際博覧会を記念して建てられた「発見のモニュメント」である。
しかし、当初の物は軟弱な造りだったため、エンリケ航海王子の500回忌を記念して1960年にコンクリート製に造り直された。
この記念碑は高さが52mあり、左右に30名の大航海時代を支えた英雄達が彫刻されている。
先頭が「エンリケ航海王」と言われているが(近年、3人目ではないかと言う疑問が出て来ているらしい)、その他にインド航路を発見した「ヴァスコ・ダ・ガマ」、喜望峰を回りインド洋に到達した「バルトロメウ・ディアス」、ブラジルを発見した「マゼラン」、日本に1549年来てキリスト教を伝えた「フランシスコ・ザビエル」、「アルフォンソ5世王」、科学者、芸術家、船長、歴史家たちである。これは正にポルトガルの過去の栄光を示す碑なのである。
と同時に、天文学、航海術、船舶建造学、地球科学、海洋学などの面で、人類の科学技術の開発発展に確かな足跡を残した記念碑でもあるのだが。
25年前に私が初めてリスボンを訪れた時は、この碑を見たいがためだった事を思い出すが、「発見された」側から見ると、太古の昔からそこで人々は生活していたのに、世界の中心はここだと言われているような変な気がしたのを覚えている。
モニュメントの背後の地面に、世界地図と発見年のモザイク画が描かれているが、1960年に南アフリカ共和国が贈呈したものである。
日本が「発見された年」として1541年とあるが、これはポルトガル船が豊後に漂着した年である。
1543年のポルトガル商船の種子島漂着は記されていないが、この時、日本に初めて鉄砲が伝えられている。
この日は雨が降っていて、傘を差した大勢の観光客が次々にやって来るので、写真を撮るチャンスがなかなか掴めず苦労した。
成田からフランクフルト行きの機内で隣席だった女性は、リスボンで「大航海時代の遭難船」を研究しているという人だった。
彼女の話によると、5隻に1隻は途中で遭難したらしく、その現地調査もしているのだそうだ。たまたまそんな話を聞けて幸運だった。