《「ヴィリニス」の歴史》
今回訪れたバルト三国は、似たような歴史を有する国だが、最も南に位置する「リトアニア」の首都「ヴィリニス」から観光が始まったので、先ずはその歴史をガイドブックを参考に概観したい。
13世紀の中頃、「ミンダスガウ大公」がリトアニア初の王位に就く。
1385年、「ヨガイラ大公」ポーランド皇女「ヤドヴィカ」と結婚し、連合国になる。
16世紀後半、貴族のポーランド化が進み、事実上ポーランドに吸収される。
1795年、「第三次ポーランド分割」でリトアニアは「ロシア領」になる。
1830年、反ロシアの蜂起が多数起きる。これに対してロシアは激しく報復、カトリック教を弾圧し、リトアニア語の使用を禁じる。
1904年、日露戦争でロシア敗北。
1915年、第一次世界大戦始まり、リトアニアにドイツ軍が侵攻する。
1918年、「国民議会」はドイツからの独立を宣言する。
1920年、「ポーランド軍」、「ヴィリニス」占領。首都を「カウナス」にする。
1939年8月、「ソ連外相モロトフ、ドイツ外相リッペンドロップ秘密条約締結」
(表向きは「独ソ不可侵条約」。しかし、秘密裏に相互の利益を擁護し、バルト三国とフィンランドの相互分割を約束していた)
第二次世界大戦勃発(9) 「相互援助協定」により、「ソ連軍」、リトアニアに駐留する。
1940年、条約違反を理由にして、「ソ連軍」、リトアニアに侵攻(6.15)し、その後「併合」する。(8.3)
1941年、数万人が逮捕(6.14)され、大量流刑始まる。
「ドイツ軍」、バルト三国に侵攻(6月)し、占領する。
1941~1944年、20万人以上の「ユダヤ人」が「強制収容所」に送られる。
1944年、「ソ連軍」、リトアニア占領。
1949年、数十万人が「人民の敵」として、シベリアに流刑される。
1990年、リトアニア「独立宣言」
2004年、EU加盟を果たす。
苦難の歴史を乗り越え、「独立」を果たしてから僅か24年の若い国なのだ。
《「杉原千畝氏」ゆかりの「旧日本領事館」》
旅行3日目に、バスで「リトアニア」から北の隣国「ラトビア」に向かう途中の町「カウナス」で、「日本のシンドラー」と称えられる「杉原千畝氏」ゆかりの「旧日本領事館」に立ち寄った。
今は「杉原記念館」として保存されている閑静な住宅地の中のその建物は、普通の住宅と間違えそうなものだった。
中には執務室、ビデオが鑑賞できる視聴覚室、資料展示室、事務室があり、まず15分間、ビデオを見た。それから彼の執務室、資料室を見学して、記念品を買った。
資料に拠ると、1939年9月、第二次世界大戦が始まり、「ポーランド」がドイツ軍に占領されると、12000人のユダヤ人がまだ独立国だった隣国「リトアニア」に避難した。
その2ヵ月後、杉原領事代理は「カウナス」のこの地に「日本領事館」を開設した。
リトアニアにいたユダヤ人亡命者は、戦争の危険が及ばない国への亡命を求めて、外国のヴィザを得ようとした。
1940年、ソ連がリトアニアを「併合」すると、彼らはソ連を通過して日本に逃れ、そこからアメリカなどへの渡航を望んだのだった。
何百人もの亡命者達が、「日本ヴィザ」の発給を求めて「日本領事館」を訪れた。
杉原氏は、日本政府に報告してヴィザ発給の承認を待ったが、2度ともドイツと協定を結んでいた日本政府の応えは「ノー」だった。
ソ連が「カウナス」にある全ての外国の大使館の閉鎖を命じる中、彼はベテランのオランダ外務省員「D.L.デ・デッケル」の助言を得て、正規でない「キュラソーヴィザ」を発給して「人道上の役割」を果たす事を決意した。
1940年7~8月に、毎日18時間働き、彼らの求めに応じて2193通の手書きのヴィザを発給した。
いよいよ領事館を閉鎖してドイツの「ベルリン」に向かう列車に迄、救いを求めるユダヤ人が押し寄せた。彼は車内で書いたヴィザを走り出した列車の窓から投げて渡したという。
こうして6000人の人たちが亡命を果たし、世界中に散らばった。
杉原氏は、その後、日本の外務省を辞職し、商社マンとしての人生を送り、1986年86歳で永眠した。、
今彼の名は、リトアニアで最も有名な日本人として知られ、彼の名前をつけた通りもある。
この記念館は、2000年にオランダとベルギーの人々の基金と努力によって、かっての「旧日本領事館」に開館し、維持されている。
(「希望の門・命のヴィザ」と書かれた入り口) (彼の執務室)
(視聴覚室の出窓にあった国旗) (キュラソー・ヴィザの提案者)
私達は2日目に「ヴィリニュス」の郊外、ネリス川の河畔に建てられている「杉原千畝記念碑」を訪れた。
この碑は、1919年に早稲田大学在学中に外務省の留学試験に合格し、その後外交官になって果たした彼の功績を称えて、早稲田大学が2001年10月に建てたものだ。
その碑には彼が発給した1通のヴィザも掲げてあった。
今回訪れたバルト三国は、似たような歴史を有する国だが、最も南に位置する「リトアニア」の首都「ヴィリニス」から観光が始まったので、先ずはその歴史をガイドブックを参考に概観したい。
13世紀の中頃、「ミンダスガウ大公」がリトアニア初の王位に就く。
1385年、「ヨガイラ大公」ポーランド皇女「ヤドヴィカ」と結婚し、連合国になる。
16世紀後半、貴族のポーランド化が進み、事実上ポーランドに吸収される。
1795年、「第三次ポーランド分割」でリトアニアは「ロシア領」になる。
1830年、反ロシアの蜂起が多数起きる。これに対してロシアは激しく報復、カトリック教を弾圧し、リトアニア語の使用を禁じる。
1904年、日露戦争でロシア敗北。
1915年、第一次世界大戦始まり、リトアニアにドイツ軍が侵攻する。
1918年、「国民議会」はドイツからの独立を宣言する。
1920年、「ポーランド軍」、「ヴィリニス」占領。首都を「カウナス」にする。
1939年8月、「ソ連外相モロトフ、ドイツ外相リッペンドロップ秘密条約締結」
(表向きは「独ソ不可侵条約」。しかし、秘密裏に相互の利益を擁護し、バルト三国とフィンランドの相互分割を約束していた)
第二次世界大戦勃発(9) 「相互援助協定」により、「ソ連軍」、リトアニアに駐留する。
1940年、条約違反を理由にして、「ソ連軍」、リトアニアに侵攻(6.15)し、その後「併合」する。(8.3)
1941年、数万人が逮捕(6.14)され、大量流刑始まる。
「ドイツ軍」、バルト三国に侵攻(6月)し、占領する。
1941~1944年、20万人以上の「ユダヤ人」が「強制収容所」に送られる。
1944年、「ソ連軍」、リトアニア占領。
1949年、数十万人が「人民の敵」として、シベリアに流刑される。
1990年、リトアニア「独立宣言」
2004年、EU加盟を果たす。
苦難の歴史を乗り越え、「独立」を果たしてから僅か24年の若い国なのだ。
《「杉原千畝氏」ゆかりの「旧日本領事館」》
旅行3日目に、バスで「リトアニア」から北の隣国「ラトビア」に向かう途中の町「カウナス」で、「日本のシンドラー」と称えられる「杉原千畝氏」ゆかりの「旧日本領事館」に立ち寄った。
今は「杉原記念館」として保存されている閑静な住宅地の中のその建物は、普通の住宅と間違えそうなものだった。
中には執務室、ビデオが鑑賞できる視聴覚室、資料展示室、事務室があり、まず15分間、ビデオを見た。それから彼の執務室、資料室を見学して、記念品を買った。
資料に拠ると、1939年9月、第二次世界大戦が始まり、「ポーランド」がドイツ軍に占領されると、12000人のユダヤ人がまだ独立国だった隣国「リトアニア」に避難した。
その2ヵ月後、杉原領事代理は「カウナス」のこの地に「日本領事館」を開設した。
リトアニアにいたユダヤ人亡命者は、戦争の危険が及ばない国への亡命を求めて、外国のヴィザを得ようとした。
1940年、ソ連がリトアニアを「併合」すると、彼らはソ連を通過して日本に逃れ、そこからアメリカなどへの渡航を望んだのだった。
何百人もの亡命者達が、「日本ヴィザ」の発給を求めて「日本領事館」を訪れた。
杉原氏は、日本政府に報告してヴィザ発給の承認を待ったが、2度ともドイツと協定を結んでいた日本政府の応えは「ノー」だった。
ソ連が「カウナス」にある全ての外国の大使館の閉鎖を命じる中、彼はベテランのオランダ外務省員「D.L.デ・デッケル」の助言を得て、正規でない「キュラソーヴィザ」を発給して「人道上の役割」を果たす事を決意した。
1940年7~8月に、毎日18時間働き、彼らの求めに応じて2193通の手書きのヴィザを発給した。
いよいよ領事館を閉鎖してドイツの「ベルリン」に向かう列車に迄、救いを求めるユダヤ人が押し寄せた。彼は車内で書いたヴィザを走り出した列車の窓から投げて渡したという。
こうして6000人の人たちが亡命を果たし、世界中に散らばった。
杉原氏は、その後、日本の外務省を辞職し、商社マンとしての人生を送り、1986年86歳で永眠した。、
今彼の名は、リトアニアで最も有名な日本人として知られ、彼の名前をつけた通りもある。
この記念館は、2000年にオランダとベルギーの人々の基金と努力によって、かっての「旧日本領事館」に開館し、維持されている。
(「希望の門・命のヴィザ」と書かれた入り口) (彼の執務室)
(視聴覚室の出窓にあった国旗) (キュラソー・ヴィザの提案者)
私達は2日目に「ヴィリニュス」の郊外、ネリス川の河畔に建てられている「杉原千畝記念碑」を訪れた。
この碑は、1919年に早稲田大学在学中に外務省の留学試験に合格し、その後外交官になって果たした彼の功績を称えて、早稲田大学が2001年10月に建てたものだ。
その碑には彼が発給した1通のヴィザも掲げてあった。