《「エストニア」という国》
今回行った「バルト三国」で最も北に位置する国が「エストニア共和国」で、北は約300kmもバルト海の「フィンランド湾」に面している国だ。
北海道のおよそ60%の面積に130万人の国民が住み、首都は「フインランド湾」に開いた北部の「タリン」である。
民族構成はエストニア人が70%弱、ロシア人25%で、その他はウクライナ人、ベラルーシ人である。
地理的には、「フィンランド湾」を挟んだ北70kmに「フィンランド」の首都「ヘルシンキ」がある。
今回の旅行では、南の「リトアニア」から中部「ラトビア」を旅行している間中晴天に恵まれ、朝の気温は低かったが午後は快適な春の気候だった。
しかし、「エストニア」に着いた日の夜から冬型の気候に変わり、夜中から雪が降った。翌日は一日中断続的に吹雪きに近い天候で、道路に5cm程積もった雪が暖気でぐちゃぐちゃになったところを歩いた。また石畳の傾斜地は、雪のため滑りやすくなっていて、転ばないように細心の注意を払って歩かなければならなかった。
ガイドブックを参考に「エストニア」の歴史を概観する。
紀元前30年頃、エストニア人の祖先が、エストニアに住む。
12世紀末、エストニアの「バイキング」がスエーデンの首都を略奪。
1219年、デンマーク王、タリンと北部エストニアを占領。
1227年、キリスト教布教と異教徒の排除を目指す「帯剣騎士団」タリンを占領。
1238年、デンマークがタリンを支配。
1285年、タリン、「ハンザ同盟」都市になる。
1343年、デンマークに対して大反乱が起きる。デンマークは北部エストニアをローマ・カトリック教会が公認したドイツ人の聖母マリア騎士修道会「チュートン騎士団」に売却する。
16~17世紀、エストニア人、ドイツ貴族の農奴になる。
1524年、宗教改革。
1558年、ロシアの「イワン雷帝」バルト地方に侵攻。
その後、次々とスエーデン、ポーランド、ロシアの支配を受ける。
1905年、ロシア革命始まる。
1915年、第一次世界大戦勃発。
1918年、エストニア共和国「独立宣言」。直ぐにドイツ軍に占領される。11月、ドイツ敗北。ソビエト・ロシアのバルト地域侵攻開始。
1920年、ソ連・ロシアと「平和条約」締結。
1934年、独裁政権誕生。
1939年、ソ連「相互援助協定」の締結を強要。ソ連軍、エストニアに駐留。
1940年、条約違反を理由にソ連軍、バルト三国に侵攻。ソ連、エストニアを「併合」。
1941年、数万人のエストニア人、シベリア流刑。
1942年、ドイツ軍、バルト三国侵攻。ソ連軍撤退。
1944年、ソ連軍、エストニア占領。
1949年、数万人の市民、シベリア流刑。
1991年、エストニア「独立」
この国も他のバルトの国と同じく、周辺大国の侵略、支配に限りなく翻弄され苦しめられた歴史があった。三国共、地理的に山が無く、どこまでも平野が続く恵まれた国土と、西ヨーロッパ、ロシア、北欧にとっては、三国が重要な中継地にある。そしてまたカトリック教会の支配範囲を拡大しようとしたためかと思われる。
《世界遺産「リーガ旧市街」の観光》(3)
⑤「猫の家」
高い屋根の両端で背伸びをする猫が2匹乗せられている建物があった。「猫の家」だ。
かってこの家には裕福なラトビア人の商人が住んでいて、大ギルドへの加入を希望していたが、ドイツ人が支配的だったギルドに加入を拒否された。その仕打ちに怒ったラトビア商人は、屋根に大ギルド会館に尻を向けた猫を取り付けたのだという。
今、猫は向きを変えている。昔の商人の意地を見た猫だった。
⑥「城壁」と「スエーデン門」
「リーガ」の旧市街は13世紀から18世紀まで「城壁」で囲まれていた。かっては28の門があり、日没時に閉められ、夜明けに開けられたという。
その門の1つが「スエーデン門」と言われている。名前の由来は、近くの兵舎に住んでいたスエーデン兵が良く利用したかららしい。当時はリーガの娘は外国人と会うのを禁じられていたという。
⑦グリム童話「ブレーメンの音楽隊」の銅像
姉妹都市の「ブレーメン」から贈られた銅像が「聖ペテロ教会」前に設置されていた。像の足や鼻にさわると幸福が訪れると信じる多くの人たちが手で撫でるので、ピカピカに光っていた。
「リーガ」の観光は楽しかった。昼食を摂ってから、バスは最後の訪問国「エストニア」の首都「タリン」に向けて309kmの道のりを北に向かって6時間走った。
途中で石油を運ぶ長い貨物列車に出会った。
国境が近づいたが、バスはノンストップで通り抜けた。EU加盟前に入出国の事務手続きをしていた建物とゲートが、国境を挟んだ両側に残されていた。