花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

「メキシコ」の旅(14)

2014年12月02日 | 海外旅行「中米」コスタリカ・メキシコ
≪「国立人類学博物館」見学≫②

「アステカ(メヒカ)室」

ここの広い場所に展示された直径3.6m、重さ24Tもある「太陽の石(アステカカレンダー)」が圧巻だった。この暦は「メキシコ・シティ」の中央広場付近に捨てられていたのが発見され、インディヘナの人達が敬うのを見て、キリスト教の大司教が再び土中に埋めてしまった。それから再度1790年に発見されたという数奇な運命のものである。
20日を1ヶ月として1年を18カ月に分け、さらに「空の5日間」があって365日となっている。
アステカ人はこのカレンダーに基づいて農耕や祭事を行っていたのであろう。
その前には、抱き合って写真を撮るカップルやグループが次々と来て賑わっていた。



 

アステカ時代に変わった頭部の形づくりが行われていた。生まれて直ぐ、まだ頭骨が柔らかい時に額に板を当てて、額から上に向かって平らにするというものだ。左の遺石の写真に見られる神官になるような身分の家で行われていたのだろうか。 

 

 

スペインが支配する前の「テノチティトラン(メキイコ・シティ)」の大きな絵が掲げられていた。



前に書いた様にこの都市は、湖の中にある島に1325年(または1345年)に造られて次第に大きくなり、16世紀の初めには人口20万人以上の大都市になっていたという。
中心の広場には、双子の大神殿(アステカの主神と雨の神「トラロック」を祀った)、諸王の神殿、球技場、生贄の頭蓋骨を並べた祭壇などがあり、一辺500mの蛇の壁で取り囲んでいたらしい。

資料(世界の博物館5『メキシコ国立人類学博物館』)によると、1450年頃に中央高原一帯が大飢饉にみまわれた時、『花の戦争』が始った。これは、6カ国の王達が協定を結んで、生贄にする捕虜を捕まえるための戦争だったのだ。
(1926年、「不足する生贄を確保するためには、戦争が必要だ」と呼びかける絵文字が発見されている)

やがて1487年、大神殿が完成した時には、支配下の都市や部族が差し出した2万人の人の心臓がくり抜かれて、神と太陽に捧げられたと言う。

「アステカ王国」では人々の不安が高まるばかりだった。そんな時にやって来たスペイン人の征服者「コルテス」に1521年8月13日王国は滅ぼされてしまった。
1532年11月16日には、アンデスの山中でインカ帝国皇帝「アタワルパ」が「ピサロ将軍」に捕らえられて、アメリカ大陸最大の古代国家は消滅したという。



コメント (2)
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