花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

「コソボ・マケドニア・アルバニア」の旅(3)

2015年03月09日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅠ」ポーランド・コソボ,マケドニア,アルバニア

≪「イスタンブール」から、初めての「コソボ」へ≫

成田国際空港を2月26日22時半に離陸したターキッシュ航空機は12時間15分後にトルコのイスタンブール空港に着いた。
エコノミー席の座席の前は狭く満席に近かったので、私は背中をほぼ直立にさせたまま寝た。イスタンブールではおよそ4時間の乗り継ぎ時間があったので、ゆっくりと過すことにした。

まず洗面所で歯を磨き、顔を洗った。そこでは日本人の若い女性も洗面していた。同じグループの人かなと思って声をかけた。すると「私はこれからロンドン行きに乗り継ぎ、ロンドンの友人の所に行きます。」と言うのだ。トルコ航空は値段が安く、時間はかかるが、ロンドンなら往復5万円なのだそうだ。急がない人ならそれもありかと納得した。

椅子が置いてある通路に行って男性の隣に座った。男性はピカピカの目立つ時計をしていた。まず時計を褒めてから「お国はどちらですか。」と聞いて見た。「ラエル…」としか聞き取れないので、地図を描いてもらったら「イスラエル」だった。色々な宗教の聖地があり、緊張が続く国の人だったのだ。

イスタンブールを7;40(日本との時差-7時間)に発った小型飛行機の座席が窓側だったので、離陸後の空港やトルコの北側の景観の写真を写した。
雲の中に入った頃、朝食が出された。美味しかった。











1時間40分後の8;20(時差はトルコよりさらに-1時間)に「コソボ」の「プリシュティナ」空港に着いた。スーツケースを受け取り専用バスに乗って「コソボ」の大地を南に向かい、走り出した。



郊外では、家がまばらにしかない。中にはレンガを積んでいる建築中のものも多く見られた。一戸が大きめなのは、2世帯7~8人で暮らす事が当たり前だからだそうだ。
(バスの窓越しに写した写真がぶれてしまい申し訳ない)





路上に車を止めて、野菜や果物を売っている光景も見られた。バスの傍を貧しそうな幼子を抱いた母と子が歩いていた。町中に紙くずやビニール袋のごみが物凄く散乱していた。





添乗員氏の説明では、「アルバニア」人が80%を占める「コソボ」自治州が「セルビア」からの独立運動をした時、1998年、「セルビア警察」と新たに結成された「コソボ解放軍」の武力衝突によって激しい戦闘が起きた。建物の80%が破壊され、避難民は30万人にも上ったと言う。女性や子どもの多くは「ギリシャ」や「ドイツ」に逃れた。
1999年アメリカとNATO軍は「セルビア」を空爆した。
男性は多くが戦死したので、現在の「コソボ」の平均年齢は若い。
「コソボ共和国」の独立宣言は、まだ中国やロシアが認めていないので「分離主義国家」となっている。現在の「コソボ」は、国連の保護領としてNATO諸国の駐留兵に守られている。
NATO軍や国連の関係者が多く来るようになって仕事も増え、今は外に逃れた人々が戻って来て人口が急増し、建築ラッシュが起きているという。
2~3の街を通過したが、建物がまばら、車は結構走っていた。

以前は独自の通貨があったが、人々が国外に出る時に困らないようにという理由で、通貨を「ユーロ」に切り替えたそうだ。私は、途中、トイレ休憩した小型マーケットでユーロでチョコレートを10個買った。安かったが食べて見たら味が馴染めず、日本に持ち帰っても仕方が無いと判断し、出会った人たちや子ども達に上げた。
マーケット前に、建築中の別の建物や公園があった。







国がまだまだ貧しいため、優秀な人材の医者や法律家などは国外に出て行ってしまうという。