1月5日は、私の父の命日である。昭和26年に39才で亡くなったから、70年忌になる。
出征先で結核になり、帰国させられてから6年間療養したが、戦中戦後は日本の医療が遅れていて、抗生物質もアメリカから輸入できず、若すぎた無念の死だった。父の死後2年経って、ストレプトマイシンが輸入されると、当時多数いた結核患者は、ようやく救命されたと聞く。
私にとっての父の面影というと、奥の8畳間に置かれたベッドに寝ていた姿、病院の小さな個室で横たわっていた姿しかない。
今のように病院に付き添い人がいない時代だったから、母親は病院でずっと付き添いをしていて、私は祖母の家や伯父の家に預けられていたから、小さい頃の母との思い出も少ない。
感染を心配したらしく、入院中の父に会いに行ったのは数回も無いが、その時父が私に「退院したら、飛行機に乗せて東京に連れて行くから。」それと「お前は病気を治す医者になれ。」と言った言葉を覚えている。「東京に行く」というのは、多分、父自身の夢だったのだろうと今になって思う。
当時は女性が働く職場は無いに等しかったので、未亡人になった30才代の母は、女学校を出た人だったが内職に頼った生活を余儀なくされ、母子家庭の我が家は本当に貧しかった。
私は高校に入った時から育英会の奨学金を借りて通学、卒業した。その3年間借りた奨学金は、2/3は無償だったが、1/3は働くようになって直ぐに返還した。高校時代は、経済的に安定できる職業に就いて母親を引き取り、最後まで面倒を見たいと勝手に思いながら一生懸命勉強した。
結婚後、母を引き取って生活を共にし出したのもつかの間、2年半後に母は肝臓の病気になって、あっという間に病死した。苦労した母親に経済的な心配のない楽しい生活を何時までもさせたいと願っていたが、長続きしなかったことが残念でたまらない。
そんな両親を見て育ったので、私は女性も例え結婚したとしても配偶者の収入だけに安住せず、不確定な人生のためには経済的な自立が必要だと信じて今までやって来た。家事、育児とフルタイムの仕事の両立がまだまだ大変だった男性優位の時代を必死で切り抜けたが、振り返ると父の早逝後の母の苦労を見て来たお陰で頑張れたし、老後の今の暮らしがある様に思う。
※窓辺で開花した「椿」