花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

「バルト三国の旅」(1)

2014年03月08日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅣ」バルト三国
まだ1.3m位積もっている庭の雪が溶け、庭仕事や家庭菜園の仕事が始まる迄まだ少し余裕があるので、今回はJALが企画した「バルト三国の旅」に出かける事にした。
昨年10月に「ポーランド」に行った時、傍の「バルト三国」も含むツアーを探した。あるにはあったが、ポイントだけしか観光しない駆け歩きの旅になるので、「バルト三国」には別途、行こうと思っていたのだった。

JALは特別に今回、国内線の搭乗チケットが往復で1,000円だというので、いつも北海道から成田までの往復便を高額なチケットで利用している私はこの破格値に飛びついたのだ。

小国「エストニア」「ラトビア」「リトアニア」の「バルト三国」は東ヨーロッパの北に位置し、「バルト海」を挟んだ北欧の南側、「バルト海」の東岸にある国々だ。そしていずれもかってはソ連邦の一部に組み込まれていて独立を果たした国々である。

面積は三カ国合わせて北海道の2倍に満たない位小さい。
しかし、ヨーロッパの海運の要衝として重要な役割を果たして来た歴史がある。
そのために近隣国であるデンマーク、スエーデン、ドイツ、ポーランド、ロシアなどの侵略と支配を受けた歴史を持つ。




10日夕方、新千歳を発っていつもの様に成田に一泊し、11日成田空港11;30発のJALに搭乗する。
直行便がないので、「フィンランド」の南端の都市「ヘルシンキ」で乗り継いで、先ず南の国「リトアニア」の首都「ヴィリニュス」に向かい、そこからはバスで「エストニア」の「タリン」迄、北上する日程になっている。

観光最後の15日に「エストニア」の「タリン」で半日、自由行動がある。オプションも設定されているが私は参加する積りがないので、今、どこに行くかを検討中である。

最後は16日「タリン」からフィンランドの「ヘルシンキ」に行くのに、バルト海を横断する2時間の船旅があり、楽しみだ。
そして夕刻「ヘルシンキ」空港から、JALで成田に帰国する予定だ。
成田到着は17日午前中となるので、午後の新千歳空港行きに乗り継ぎ、帰宅は夕方になる。

「バルト三国」の気温は今の北海道よりは高いが、東京よりは数度低いので、風邪を引かぬようセーターや冬用の下着を持ち、重ね着をし、ダウンコートを着て行く積もりだ。

また今回は、「海外旅行傷害保険の加入」が義務付けられていて、その内容を英語か独語、露語などで翻訳した「付保証明書」を持参しなければならない。
主催する旅行社は提携する保険会社の保険を薦めるが、私は最近、カードに自動的についている保険で間に合わせているので、その「付保証明書」を保険会社に要請した。無料だった。

先日、「ウクライナ」の「ヤヌコビッチ」前政権が崩壊した後、クリミア半島でロシア軍の領土介入の動きが連日、問題になっているが、今回も、それぞれの国への影響があるのかどうかなどもできれば見て来たい。

今までと同じく、元気で事故に遭わぬように、また迷子にならないように注意して行って来るので、宜しくお願いしたい。




11日11;30出発のJAL国際線は、72時間前から(一部は24時間前から)WEBで座席が予約できる。30分近くかかったが、通路側の座席を予約し、今しがた「オンライン搭乗券」の印刷を済ませた。
いよいよ行く気持ちになって来た。これから持って行く荷物の整理をしたい。


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今週のできごと

2014年03月07日 | 日記
日曜日は岩見沢の伯母を慰問した。岩見沢市は、昨年、一昨年と「豪雪地域」の名の通り、物凄い積雪量だったが、今年の岩見沢は私の市よりも積雪量が少ない感じがした。
伯母は目が緑内障で見えなくなって来ているのと、耳がかなり遠くなって来たこと以外は相変わらず元気で、朝、思い立って作ったいなりずしと鱈子コンニャク、各種野菜や果物を持参した私の訪問をとても喜んでくれた。
1月末に届けた「香り椿」の鉢の花が、次々と60個も咲き、香りも良いので多くの人に喜ばれたと言っていた。
それで今回は私が2~3年前から育てて来た薄いピンク色の「シクラメン」と「アザレア」の2鉢を持参した。施設内の廊下の気温が丁度植物に適しているらしいので、また暫く伯母達に楽しんでもらえそうだ。

火曜日は50数年来の友人に会いに、待ち合わせの札幌郊外の回転寿司屋に行った。国道の雪はほとんど残っていなかった。
太り気味の私と違って彼女は相変わらず細かったが、厳しい寒さの中で暖房費用が結構高いことを嘆いていた。私も働いていた時には特別手当として出ていた若干の「寒冷地手当て」が、退職後は勿論全く無いので、同じ年金暮らしなら温暖な土地で暮らす方がどれ程経済的かと実感している所だ。
生寿司はどれも新鮮で美味しかったので、彼女とは次回もそこで会おうと約束した。

一昨日、昨日と猛吹雪に見舞われ、吹き溜まりもできたので、1回30~40分かかる除雪作業を毎日した。今朝は気温が-10℃と寒かったので、先ほど除雪作業をしたが、長靴を履いた足が冷たくて痛くなった。
今日も最高気温はマイナスだが、今後は天気さえ良ければ少しずつ雪が溶けて行くだろうと楽しみだ。

また一昨日は、傍の公民館であった所得税の「確定申告」に出かけた。
私の場合、昨年の医療費が11万円を越したので、若干だが税金が戻ってくる。
資料を作るのに時間がかかり目も疲れ、肩も凝ったが、時間はたっぷりある身なので、少しでも税金の還付があるならその方が良いのだ。

                              



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「三回目のインド旅行」(14)

2014年03月05日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド

《インドの課題を考える》

国境を接する国々との外交問題を抱える一方で、一旅行者の目から見ても、人口11.5億人の貧富の格差は拡大し、道路、電気、水道といったインフラ整備は遅れ、産業の発展の遅れ、教育機会の不平等などが目に付いた。

特に男性優位の社会体制は深刻な女性差別を生み、統計上の子どもの出生数すら女児はかなり少ない。
これは結婚時に女性は男性側から多額な持参金や品物(車、家、金銀、家財道具、バイク、家畜など)を要求される習慣があるが、持参金が少ないと暴力を振るわれたり、中には殺されたりもする(男性は次の結婚でまた持参金を得られるから)ので、女児を持ちたくないという親の考えに基づくらしい。
女性に比べ、良い教育を受けたり、公的な仕事に就いている将来性がある男性は、多額の持参金や高額な品を持参する女性と結婚できるそうだ。

大半の結婚は、同じカースト内で親同士が決める事が多い。
(不可触民や最低カーストに所属する男性は、結婚相手を見つけることが難しい。ヒンズー教の「結婚のきまり」によると、昔からそんな男性には「レイプ」を奨励している。「レイプ」の被害女性は、結果的に誰とも結婚できなくなってしまい、加害男性と結婚するしかなくなるからだという)

また中流階級以下の家庭の女性は、教育もされず、経済的な自立の道が閉ざされているので、結婚しないと生きて行けない。だから親は、娘がまだ思春期にならないうちに急いで結婚先を決めてしまいがちだという。かっては5~6歳の「幼児婚」も多かったが、現在では法律で禁じられたらしい。極端に年齢が異なる高齢男性に嫁がされる女性もまだ多いのだという。結婚時に親は結婚相手から娘の持参金を貰うが、そてはほとんどが親の借金返済や生活費で消えるらしい。

離婚した男性は再婚できるが、女性には再婚は認められない。

経済的には工学系大学の教育水準が高く、イギリスの植民地だった歴史から英語教育も進んでいるため、インドではIT産業が発展していると言われるが、インドに詳しい門倉貴史氏は著書で、「IT産業が発展しても、一部の富裕層が生まれるだけだ。経済的発展を裾野にまで広げて行くには、第2次産業を興す必要がある。」と書いている。

また、インドの歴史に詳しい山崎元一氏は著書で、「不可触民」は、ヒンズー教が維持して来た「カースト制」によって、ヒンズー教寺院内にも入れてもらえず、きれいな井戸水を汲むことも、貯水池を使う事もできない最下層に置かれて来た」と書いている。
そして、「アンベードカル」という人物の事を紹介している。

「アンベードカル」は、村の雑用をするカーストの「不可触民」に生まれたが、例外的に高等教育を受けた。
彼は独立後のネルー内閣で法務大臣に迎えられ、憲法起草委員会の委員長を務めた。1950年1月に施行された憲法17条では、「不可触民」を廃止し、「不可触民」差別は犯罪だと規定された。

また、彼はヒンズー教から仏教へ改宗する運動を起こしたという。
彼によると、仏教は「自由、平等、友愛に立つ宗教で、カースト差別を認めるヒンズー教に対抗して来た宗教だ」という。その時、改宗運動に賛同した「不可触民」が沢山出て、一時、急激に仏教徒が増えた。

ところが改宗した人たちは、ヒンズー教が行う地域の行事に参加しないため、様々な嫌がらせを受けたりして、改宗者はその後、増えなかった。
しかし、改宗した人たちは、「不可触民」の汚名がなくなったという意識を持ち、その後子どもの教育に力を入れているという。
現在インドの仏教徒は0.7%だが、教育を受けた低位カーストに生まれた若者の中で、現在仏教へ改宗する人が見られるらしい。

インドを3回旅行した一旅行者の私から見て、インドに生まれた全ての人々が安心して生きて行ける国になるための方策を、彼ら自身の手で一日も早く切り開いて行って欲しいと願うばかりだ。

(参考文献 「地球の歩き方 インド」、門倉貴史著 かんき出版「手にとるようにわかるインド」、辛島 昇著 朝日新聞社「南アジア」、中央公論社 世界の歴史3 山崎元一著「古代インドの文明と社会」)

  




今回は全部で12の世界遺産の観光を終えて、「アウランガバード」に戻った。
昼食を食べてから「デリー」行きの飛行機に乗り、「デリー」発21;15の「成田空港」行きに乗り継いで帰路に就いた。

出発は1時間半遅れたが、予定通り翌朝無事に「成田」に着き、そこからまた「新千歳空港」行きに乗り継いで無事に自宅に帰った。
帰宅したらインドの気温とは余りにも違う当地の気温だったが、数日で寒さにも慣れ、こうして何とか旅行記をまとめる事ができホッとしている。

多分、インドにはもう行くことはないと思うが、今回も宗教芸術の凄さ、信仰の力を感じた旅だった。
一方で垣間見たインドだが、伝えたい事が沢山あって、何をどの様に書くべきか悩んだ。
その結果としての今回のインド報告は、すっきりしないまとめ方になったが、如何だっただろうか。インドの世界遺産と現状を少し知って貰えただろうか。

長文の旅行記を読んでコメントをいただいた皆さんには、コメントが書く励みになり、とてもあり難かった。
勉強不足のため、記事に誤りがあるかも知れないが、気づいた方はどうか指摘して欲しい。 (完)

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「三回目のインド旅行」(13)

2014年03月04日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド
《イギリスの植民地から独立に至る経過》

最後にどうしてもインドの近代史を簡単にまとめて置きたくて、文が少し硬くなるが許して欲しい。

振り返ると、イギリスの支配が強まってからも、インド国内には何人もの王がいて、それぞれが支配する幾つもの国に分かれ、支持する宗教も異なり、互いに争いあっていた。
インド中が一つの力にまとまれない中で、イギリスの強権的で狡猾な植民地的支配が続いた。

1857年、イギリスの支配を不服とした「セポイ(イギリス東インド会社の傭兵)の反乱」が起きると、皇帝、僧侶、農民などを含む広範な大反乱に拡大して行った。
「セポイの反乱」のきっかけは、傭兵が渡された新しいライフル銃に使う火薬の包み紙を歯で切って使うようにイギリス人に指示されたが、その紙にはヒンズー教で禁じられている牛の脂やイスラム教で禁忌する「けがれた」豚の脂が沁み込んでいた。傭兵はそれに反対し、デリーを占拠し、「バハードゥル・シャー・ザファール」がインドの独立国君主だと宣言したのだった。しかし、この大反乱はイギリスに制圧された。

これを契機にイギリスは、1858年「インド統治改善法」を発布してインドの直接統治を決定したのだった。これにより「バハードゥル・シャー・ザファール」を廃位し、「ムガール帝国」は滅亡した。

19世紀末になると、インド人エリート達を中心に政治への参加、民族自決の意識が高まり、「国民会議派」が結成された。
やがて独立運動を目指して兵士の氾濫が起きたが、イギリスに弾圧された。
20世紀になると独立派が多いベンガル州の分割を意図したイギリスに反対して、イギリス製品のボイコット、国産品の愛用を決めた独立運動が広がった。
イギリスが運動を弾圧する中で、イスラム教の新しい会派が生まれたり、「国民会議派」が分裂したりした。

そんな中、「モハンダス・カラムチャンド・ガンジー」が1922年、『非暴力と不服従』をスローガンにして始めた運動は、やがてイギリスからの独立を目指す大衆運動になって行った。
中でも1930年にガンジーが始めた「塩の行進」は、イギリス植民地政府が製塩の専売権を持ち、一般人に海水から塩の製塩を禁じた法律に反対して「ガンジー」が先頭になり遠い海まで行進し、塩を作ろうとしたもので、多くの人々が示威行進に参加したのだった。
こうした大衆運動によって、ついに1947年8月15日、イギリスは「インドの独立を容認」した。初代首相には「ネルー」が選ばれた。

独立までの粘り強い運動の歴史を持つインドだが、宗教的な対立は根深く、独立時にイスラム教信仰者が多い北西部と北東部は「パキスタン」として分離独立してしまった。
さらにその後の1971年、東パキスタンは「バングラディシュ」としてパキスタンより独立した。

その後もインドとパキスタンの間には緊張関係が続き、中国との国境を巡る摩擦も終ってはいない。

        
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「三回目のインド旅行」(12)

2014年03月03日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド
今日はひな祭り。娘が生まれた時に求めた雛飾りの7段セットは、ここ数年飾っていない。転勤族の娘は、就職して以来、家を出て行ったので、私では飾ったとしても片付けるのが大変だからだ。
今日はお汁粉でも作って食べようかな。それとも滅多に造らない散らし寿司でも作ろうか。
明日は旧友と久し振りに会うことになっているので、手土産は何にしようか考えている。




《エローラ石窟寺院》

ついに旅行も8日目となって最終日を迎えた。
2泊した「アウランバード」のホテルに別れを告げ、スーツケースを積み込んだバスに乗った。
そこから西北西に60km程行くと、今回の旅のハイライト「エローラ石窟寺院」があるのだ。

途中バスが止まった。
降りると古い城跡が見えるという。写真撮影だけをしてバスに戻るよう言われた。
私がグループから少し離れた所で写真を写していた時、不意に絵葉書売りの男性に腕を捕まれ、1m程引っ張られたのでとても驚いた。
振り返って見たら、動物か何かの排泄物がどっさりあったのだ。その男性は、カメラを覗いていて排泄物に気づかない私を救ってくれたのだろう。
バスは直ぐに出発したが、もう少し時間があればその人の絵葉書を買ったのにと悔やんだ。

さらに数十キロ進むと小山が見えて来た。バスを降りて少し歩いた。
前日に「アジャンタ石窟寺院」で見たのと同様の石窟が見えて来た。ここには全部で34の石窟が1.5km程の岩山の壁面に掘られている。
その内の第1~12窟は「仏教石窟群」で、第13~29窟は「ヒンズー教石窟群」、第30~34窟は「ジャイナ教石窟群」なのだ。
「仏教石窟群」は7~8世紀に、「ヒンズー教石窟群」は6~9世紀に、「ジャイナ教石窟群」は9世紀頃に掘られたものらしい。

私達はその中のいくつかの代表的な石窟の内部を見た。
最初は「仏教石窟群」を見たが、内部に何も無い洞窟は、穀物などの食糧庫だったらしい。柱は岩山を支えるのではなく、単なる装飾として掘り出されて作られたものだ。





大勢のインド人観光客が来ていた。素敵なサリーを着ていた年配女性に、写真を撮らせてもらった。お礼に旅行中バッグに入れて持ち歩いている完成間近まで折った折り紙のツルを、手早く彼女の目の前で仕上げて差し出した。
その時、別の女性グループも寄って来て興味深そうに見ていたので、もう一つ仕上げて1人の人に渡したらとても喜んでくれた。
彼女達とはヒンズー教寺院でまた会ったので、写真を撮らせてもらった。



「ヒンズー教石窟群」は少し離れた所にあった。そこに行く途中に野生の猿がいた。



代表的な石窟寺院を見たが、やはり何と言っても驚いたのは第16窟「ヒンズー教石窟寺院」の「カイラーサナータ寺院」だった。
仏教が衰退する中、勢力を強めたヒンズー教だったが、僧達の修行の場ではなく、ヒンズーの神々を祀るために造られた寺院なのだ。
巨大な岩山を山の上と脇面から100年の歳月をかけて少しずつ内部に掘り進み、奥行き81m、幅47m、高さ(深さ)33mの空間内に、塔門、17mの柱頭、前殿、本殿などを掘り出して建造した寺院なのだった。

 

 

 

 

前殿の入り口から入り、明かりが無く暗い室を奥の本殿に進むと、狭い空間にヒンズー教が信仰する「リンガ」が置かれていた。
ガネーシャ神の乗り物の象も幾つもあった。スポンサーだった王達の財力と威信、そして百年間、巨大な岩山にノミ一つで挑戦し、数々の素晴らしい石造彫刻を作り出した人々の熱意、信仰心を想像し、圧倒された。

(山の上に行って、下の寺院全体を見たかったが予定に無く、叶わなかった。最後の写真は、入り口の裏側に作られていた「ベランダ」の上に行って撮ったものだ)

 




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「三回目のインド旅行」(11)

2014年03月01日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド
《アウランガバード市内観光》

「アジャンター石窟寺院」から町に戻って昼食を食べた後、市内観光に出かけた。
その中の1つが「ビービー・カ・マクバル」だった。(「マクバル」は、墓の意味)

「アウランガバード」の町の名を聞くだけで、「タージ・マハール」を建てた父を幽閉して王位を奪った第6代「アウラングゼーブ帝」を思い浮かべるだろう。
彼はデカンの太守だった関係でこの地名がついた。
そして彼の息子「アザム・シャー」は、1678年に母の「ラビア・ドゥラーン」を埋葬するための廟を建ててこの地に残した。

形は「タージ・マハール」をモデルにしたらしいが、財政的に厳しかったらしく、廟の規模はかなり小さい。大理石はドームと墓標の周りだけに使われている。
また背後には川がない代わりに庭園が造られていた。

もし、まだ「タージ・マハール」を見ていない人がこの「ビービー・カ・マクバラ」を見たら、その美しさに感動するだろうと思った。異教徒やその教会には残虐だった彼の息子が、祖父王に習って母を祀るこんな廟を建てた事が面白い。
2階の回廊から下を見ると、1階に墓があって、上から投げたお金が散乱していた。







女子小学生のグループが引率されて見学に来ていた。私達を見ると、競い合うように寄って来て英語で話しかけ、写真を撮ってほしいと言う。デジカメで撮った写真を見せてもらうのが嬉しいらしかった。

台座の後部から見た夕方のデカン高原の風景は特別だった。


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