2007年5月12日と15日に開催されたロハスクラシック・コンサートが、
「TOYOTA presentsロハスクラシック・コンサート2007」としてBS朝日での放映されたのをやっと見ました。
cmではmore treesを紹介する教授のコメントBGMはseven samurai
TOYOTAもグローバル植林活動をフィリピンをはじめやっていくらしい。
200名以上の応募から、「ボキャブラリーの多さではなく、自分のコトバで表現する」というオーディション基準を満たした全5組が見事合格を果たした。
僕は作曲家出身なんで、座標軸に点を置いたら満足するところがある。でも、本当はそういうもんじゃ
ない。
教授のインタビューはこちら
第2部は、コトリンゴの弾き語りから始まったらしい。
教授がピアノの前に座る。「Bibo no Aozora」、「The Sheltering Sky」を、即興も交えて響かせる。続いて、スペシャルゲスト藤原真理がステージへと上がる。
「作曲家だけが音楽を作るのではなく、演奏家も音楽を作るんだと教わった」と、坂本が藤原を紹介するように、彼女がバッハの「無伴奏チェロ組曲第1番(全曲)」で聴かせてくれた「コトバ」は、まさに天衣無縫としか言いようのない、自由で輝きに満ちたものだった。坂本とのトークでは、「ひとつ試していただきたいんですが。わざと感情を入れずに弾いてくれませんか?」というリクエストに藤原が応えて、2種類の弾き方を披露するという、「自分のコトバでしゃべる」ことをテーマにしたワークショップのようなひとコマも。無謀なお願いをしてすみません。そして、最後にふたりが共演した「Lost Child」は、お互いへの信頼と、同じ場で演奏する喜びが一音一音から感じ取れる名演となった。
コンサートのハイライト、日本を代表するチェリスト・藤原真理さんと坂本の共演シーン。「永遠の仔」
(月刊ソトコト2月号特集「ロハス大予言2007!」より抜粋)
『 ボキャブラリーの多さではなく、
自分のコトバでしゃべる。
それが2007年のロハスクラシックの基準』(坂本龍一)
ロハスクラブ(以下、ロ): 2006年に引き続き、2007年も5月にロハスクラシック・コンサートを開催することになりました。
このコンサートは、若い世代の演奏家やミュージシャンの発掘と育成という目的を掲げて、年に1回開催していくものですが、総合プロデューサーとしての坂本龍一さんの、音楽の道を志す若い世代の人たちへのメッセージとはどのようなものなのでしょうか?
坂本龍一(以下、rs): 作曲をする、ということは言ってみれば、方眼紙に点をおいていくようなものです。座標軸に音を置いていくような、そんな普通の音楽はもうぼくには要らないかな? そういうこともずっと訓練してきましたから、やれ! といわれればやれますけど、どんどん興味がなくなってきていますね。もちろん、座標軸に音を置いていく音楽の美しさもあると思います。
その極点が、バッハでしょうか。彼は、僕の中でどんどん大きくなる。彼のように、数理的な、論理的な美しさを音楽で表現できる人は、本当に尊敬してしまいます。
日本人は、140年ほど前に、西洋音楽を輸入して、それこそ元々、方眼紙も座標軸ももっていなかった人々が、一生懸命、ひとつひとつお勉強して、覚えてきたんですね。「この座標にこうやって音を置くと、ドミソになるんですよ」みたいに。で、140年ほど経って、日本人は、確かに音の置き方はずいぶん上手になったと思います。ただ、音楽とは座標軸に音を置く行為のことを言うのではなくて、置いた結果、それがどう響いたか? そして、それを聴いた人間がどう感じたか? それが、音楽なんです。
ところがまだ、ほとんどの日本人が、座標軸に置くことを音楽だと思っている。それは丁度、知らない外国語の単語や、文法をひたすら勉強しているようなもの。なぜ、単語や文法を勉強するかというと、それを使って、愛が育まれたり、喧嘩をしたり、人に感動を与えたり、本を書いたりするためです。単語を覚えるのとは、全然違う次のステップなのに、そこにいっている人がほとんどいない!
ロ:それが、2007年のロハスクラシック・コンサートのテーマと考えてもよろしいのでしょうか?
rs: その通りです。そこのステップにたどりついている演奏家や作曲家でないと意味がないのだけれど、現実には、ほとんどいないのですよね。僕自身も、つい最近、このことに気づいただけなので、自分がそこまでいっているか、という保証もないのだけれど、とにかく、長い間音楽をやってきて、やっとそこに気づいたのですよ。
ですから、2007年の「ロハスクラシック」の基準は「ボキャブラリーの多さではなく、自分のコトバで表現する」ということです。この基準に満たない者はすべて、落とします!
ロ: 2007年のロハスクラシック・コンサートは、坂本さんの審査によるオーディション方式で開催させていただきます。これは、誰もが参加できるインターネットサイトですが、いまご提示いただいた「基準」についてもう少し詳しく、また、参加者に何を期待するか? についてお聞かせください。
rs: 今の例を使うと、日本人は試験のために皆、英単語や文法などを中学生から覚えるわけです。一番たくさん単語を覚えた人が勝ち。ただ、次のステップとして大切なことは、覚えた単語を、どう使うのか? 一番単語をたくさん覚えている人より、その十分の一しかボキャブラリーがなくても、人を感動させることができる人がいるかも知れない。
2006年の「ロハスクラシック」のコンサートに出た人の中で、もしかしたら一番ボキャブラリーが少なかったのはコトリンゴ(注: 本名=三吉理絵子 / 第1回コンサート出演者であり、この出演がきっかけになり11月にCDデビュー)だったのかもしれないけど、彼女の、自分が言いたいことを話そうとしていた姿勢が、魅力的に映ったのかも知れませんね。
そこに気がついている人が本当に少ない。日本では、藤原真理さん(注: チェリスト / 2000年に坂本氏がリリースした「Lost Child」に参加)くらいしか、深く分かっている人は、いないのではないか? 藤原真理さんと出会ったことで、僕は音楽家として変わった、と言えるくらい、本当に彼女に大きな影響を受けました。
僕はずっと作曲科でしたから、それこそ座標軸に点を置いていくことを長い間教わってきました。どうやって美しく置くかを競ってきたのです。演奏家については、作曲家より一段低い存在として見がちでした。「演奏家は作曲家の書いた譜面を正確に音にしてくれればいいんだ」くらいにしか思っていなかった。真理さんに、できたばかりの方眼紙(スコア)を渡したら、彼女はそれを見て、すぐにチェロを弾き出したのだけれど、それは、作曲している時に、僕が頭の中で予想していたものとは全然違ったものだった。彼女は僕の曲を使って、彼女のコトバで話し出したのです、しかも一瞬にして。作曲家の考えていたものとは次元の違う、生きた音楽だった。
「ああ、演奏家というものは、こういうことをする人のことなんだ」と、その時分かりました。でもそういう人は、ほとんどいない気がする。何もこれは、日本人に限ったことではないですよ。アメリカにも分かっていない人は大勢いると思います。同じチェリストでいえば、ヨーヨー・マだって危ないかもしれない。オーディションに応募してきたら落とすかもしれない(笑)。確かにもの凄く上手いですよ、彼。でもその上手さは、勉強して英単語をたくさん覚えている、そういう上手さのような気がしてならないのです。
作曲家も同じです。日本には僕より優秀な作曲家はいくらでもいます。さくさく曲が書けて、すごく幅広い知識を持っている人。でも、自分のコトバで話しかけて、聴衆がそれに反応して、彼らと何かを共有できて……。そういうことが出来る人が、はたして何人いるだろう? そういう意味でいうと、やはり日本では武満徹さん。武満さんは、やはりすごい。ちゃんと自分のコトバでしゃべっていた人だと思います。
たとえば演劇の台本がある、それはただ文字が並んでいるものに過ぎないわけだけれど、それを優れた役者が演じ、話すことで生きたコトバになり、観客は感動する。音楽も同じです。方眼紙に置いてある点を、響かせて、生かせて、届けてなんぼ! そこで初めて、音楽と呼べるものになるのだと思います。
ロ: うーん、このままだとハードルが高すぎて、応募してくる人がいるかどうかちょっと不安になってきました(笑)。
rs: 長い間音楽をやってきた僕が、ようやく、気がついたんです。10代、20代で、すでにそれが分かっている人がいたら、僕が弟子になります(笑)。
若いうちは分からないであたりまえですから、とにかく自分はこう弾きたい! という意志を持って、参加してくれればいい。矛盾したことを言うようですが、「僕は、人の2倍の速さで弾きたい」、「僕は、とにかくデカい音で弾きたい!」とかそういうのでもいいんですよ。冗談みたいに聞こえるかも知れませんが、人と違う、というのは、とても大事なことだと思うのです。大事なのは、「自分はこう弾きたい」という意志。
僕が、こういうふうに考えるようになったきっかけは、2000年です。『BTTB』のピアノソロツアーで、ベルリンでライブをした時のことです。あの時、いかにもブラームス的な美しい曲、ブラームスのような、美しい方眼紙上での点の置き方が出来て、悦に入っていたんです。そして、その曲をベルリンで弾いていた時、突然、「何で東洋人のオレが、ベルリンで、しかも1世紀以上前の作曲家みたいな曲を弾いているんだ? 一体オレは何をやっているんだろう?」というふうに思って、何が何だか分からなくなってしまったのです。演奏中に、アイデンティティが崩壊してしまったのですね。
もしかしたら、それまでは僕はニセ作曲家だったのかも知れない。サティみたいな曲も書ける、ブラームス的にも書ける! クラシックから、テクノやヒップホップまでジャンルを越えて、何でもOK、マルチなオレ! 何でも方眼紙に美しく点を置くことが出来る……。ボキャブラリーが多いのが自慢だったんですが、所詮それは、ボキャブラリーのレベルでしかなかったんですね。だから、僕は、今は、方眼紙に点を置くような音楽には興味を失いつつあります。
「ロハスクラシック」と銘打っていても、所謂クラシックだけでなくて、JAZZや、邦楽(純邦楽)も民族音楽もあっていい。邦楽の世界も、最近はクラシック同様、技術も上がって来て、取りくむ人も増えてきているようです。けどこれもJAZZなどと同じで、博物館に入りやすい危険な音楽です。ただ、上手に弾けるとか、古典どおりに弾ける、というのも危険ですけれど、西洋音楽、つまり「ドレミファソラシド」の音感だけで演奏してしまったり、打ち込みのMIDIと一緒に演奏してしまったりしていて、日本古来の音階や、それこそ方眼紙に書けないような、独特の感覚を失ってしまっている人が多い。これは完全にアイデンティティを破壊してしまっていますね。これはよくない兆候です。
ともかく「ロハスクラシック」のオーディションに、どんどん応募してください。上手い、下手は関係なし。スタイルも自由です。とにかく自分のコトバで話してください。
ロ: ありがとうございました。
「TOYOTA presentsロハスクラシック・コンサート2007」としてBS朝日での放映されたのをやっと見ました。
cmではmore treesを紹介する教授のコメントBGMはseven samurai
TOYOTAもグローバル植林活動をフィリピンをはじめやっていくらしい。
200名以上の応募から、「ボキャブラリーの多さではなく、自分のコトバで表現する」というオーディション基準を満たした全5組が見事合格を果たした。
僕は作曲家出身なんで、座標軸に点を置いたら満足するところがある。でも、本当はそういうもんじゃ
ない。
教授のインタビューはこちら
第2部は、コトリンゴの弾き語りから始まったらしい。
教授がピアノの前に座る。「Bibo no Aozora」、「The Sheltering Sky」を、即興も交えて響かせる。続いて、スペシャルゲスト藤原真理がステージへと上がる。
「作曲家だけが音楽を作るのではなく、演奏家も音楽を作るんだと教わった」と、坂本が藤原を紹介するように、彼女がバッハの「無伴奏チェロ組曲第1番(全曲)」で聴かせてくれた「コトバ」は、まさに天衣無縫としか言いようのない、自由で輝きに満ちたものだった。坂本とのトークでは、「ひとつ試していただきたいんですが。わざと感情を入れずに弾いてくれませんか?」というリクエストに藤原が応えて、2種類の弾き方を披露するという、「自分のコトバでしゃべる」ことをテーマにしたワークショップのようなひとコマも。無謀なお願いをしてすみません。そして、最後にふたりが共演した「Lost Child」は、お互いへの信頼と、同じ場で演奏する喜びが一音一音から感じ取れる名演となった。
コンサートのハイライト、日本を代表するチェリスト・藤原真理さんと坂本の共演シーン。「永遠の仔」
(月刊ソトコト2月号特集「ロハス大予言2007!」より抜粋)
『 ボキャブラリーの多さではなく、
自分のコトバでしゃべる。
それが2007年のロハスクラシックの基準』(坂本龍一)
ロハスクラブ(以下、ロ): 2006年に引き続き、2007年も5月にロハスクラシック・コンサートを開催することになりました。
このコンサートは、若い世代の演奏家やミュージシャンの発掘と育成という目的を掲げて、年に1回開催していくものですが、総合プロデューサーとしての坂本龍一さんの、音楽の道を志す若い世代の人たちへのメッセージとはどのようなものなのでしょうか?
坂本龍一(以下、rs): 作曲をする、ということは言ってみれば、方眼紙に点をおいていくようなものです。座標軸に音を置いていくような、そんな普通の音楽はもうぼくには要らないかな? そういうこともずっと訓練してきましたから、やれ! といわれればやれますけど、どんどん興味がなくなってきていますね。もちろん、座標軸に音を置いていく音楽の美しさもあると思います。
その極点が、バッハでしょうか。彼は、僕の中でどんどん大きくなる。彼のように、数理的な、論理的な美しさを音楽で表現できる人は、本当に尊敬してしまいます。
日本人は、140年ほど前に、西洋音楽を輸入して、それこそ元々、方眼紙も座標軸ももっていなかった人々が、一生懸命、ひとつひとつお勉強して、覚えてきたんですね。「この座標にこうやって音を置くと、ドミソになるんですよ」みたいに。で、140年ほど経って、日本人は、確かに音の置き方はずいぶん上手になったと思います。ただ、音楽とは座標軸に音を置く行為のことを言うのではなくて、置いた結果、それがどう響いたか? そして、それを聴いた人間がどう感じたか? それが、音楽なんです。
ところがまだ、ほとんどの日本人が、座標軸に置くことを音楽だと思っている。それは丁度、知らない外国語の単語や、文法をひたすら勉強しているようなもの。なぜ、単語や文法を勉強するかというと、それを使って、愛が育まれたり、喧嘩をしたり、人に感動を与えたり、本を書いたりするためです。単語を覚えるのとは、全然違う次のステップなのに、そこにいっている人がほとんどいない!
ロ:それが、2007年のロハスクラシック・コンサートのテーマと考えてもよろしいのでしょうか?
rs: その通りです。そこのステップにたどりついている演奏家や作曲家でないと意味がないのだけれど、現実には、ほとんどいないのですよね。僕自身も、つい最近、このことに気づいただけなので、自分がそこまでいっているか、という保証もないのだけれど、とにかく、長い間音楽をやってきて、やっとそこに気づいたのですよ。
ですから、2007年の「ロハスクラシック」の基準は「ボキャブラリーの多さではなく、自分のコトバで表現する」ということです。この基準に満たない者はすべて、落とします!
ロ: 2007年のロハスクラシック・コンサートは、坂本さんの審査によるオーディション方式で開催させていただきます。これは、誰もが参加できるインターネットサイトですが、いまご提示いただいた「基準」についてもう少し詳しく、また、参加者に何を期待するか? についてお聞かせください。
rs: 今の例を使うと、日本人は試験のために皆、英単語や文法などを中学生から覚えるわけです。一番たくさん単語を覚えた人が勝ち。ただ、次のステップとして大切なことは、覚えた単語を、どう使うのか? 一番単語をたくさん覚えている人より、その十分の一しかボキャブラリーがなくても、人を感動させることができる人がいるかも知れない。
2006年の「ロハスクラシック」のコンサートに出た人の中で、もしかしたら一番ボキャブラリーが少なかったのはコトリンゴ(注: 本名=三吉理絵子 / 第1回コンサート出演者であり、この出演がきっかけになり11月にCDデビュー)だったのかもしれないけど、彼女の、自分が言いたいことを話そうとしていた姿勢が、魅力的に映ったのかも知れませんね。
そこに気がついている人が本当に少ない。日本では、藤原真理さん(注: チェリスト / 2000年に坂本氏がリリースした「Lost Child」に参加)くらいしか、深く分かっている人は、いないのではないか? 藤原真理さんと出会ったことで、僕は音楽家として変わった、と言えるくらい、本当に彼女に大きな影響を受けました。
僕はずっと作曲科でしたから、それこそ座標軸に点を置いていくことを長い間教わってきました。どうやって美しく置くかを競ってきたのです。演奏家については、作曲家より一段低い存在として見がちでした。「演奏家は作曲家の書いた譜面を正確に音にしてくれればいいんだ」くらいにしか思っていなかった。真理さんに、できたばかりの方眼紙(スコア)を渡したら、彼女はそれを見て、すぐにチェロを弾き出したのだけれど、それは、作曲している時に、僕が頭の中で予想していたものとは全然違ったものだった。彼女は僕の曲を使って、彼女のコトバで話し出したのです、しかも一瞬にして。作曲家の考えていたものとは次元の違う、生きた音楽だった。
「ああ、演奏家というものは、こういうことをする人のことなんだ」と、その時分かりました。でもそういう人は、ほとんどいない気がする。何もこれは、日本人に限ったことではないですよ。アメリカにも分かっていない人は大勢いると思います。同じチェリストでいえば、ヨーヨー・マだって危ないかもしれない。オーディションに応募してきたら落とすかもしれない(笑)。確かにもの凄く上手いですよ、彼。でもその上手さは、勉強して英単語をたくさん覚えている、そういう上手さのような気がしてならないのです。
作曲家も同じです。日本には僕より優秀な作曲家はいくらでもいます。さくさく曲が書けて、すごく幅広い知識を持っている人。でも、自分のコトバで話しかけて、聴衆がそれに反応して、彼らと何かを共有できて……。そういうことが出来る人が、はたして何人いるだろう? そういう意味でいうと、やはり日本では武満徹さん。武満さんは、やはりすごい。ちゃんと自分のコトバでしゃべっていた人だと思います。
たとえば演劇の台本がある、それはただ文字が並んでいるものに過ぎないわけだけれど、それを優れた役者が演じ、話すことで生きたコトバになり、観客は感動する。音楽も同じです。方眼紙に置いてある点を、響かせて、生かせて、届けてなんぼ! そこで初めて、音楽と呼べるものになるのだと思います。
ロ: うーん、このままだとハードルが高すぎて、応募してくる人がいるかどうかちょっと不安になってきました(笑)。
rs: 長い間音楽をやってきた僕が、ようやく、気がついたんです。10代、20代で、すでにそれが分かっている人がいたら、僕が弟子になります(笑)。
若いうちは分からないであたりまえですから、とにかく自分はこう弾きたい! という意志を持って、参加してくれればいい。矛盾したことを言うようですが、「僕は、人の2倍の速さで弾きたい」、「僕は、とにかくデカい音で弾きたい!」とかそういうのでもいいんですよ。冗談みたいに聞こえるかも知れませんが、人と違う、というのは、とても大事なことだと思うのです。大事なのは、「自分はこう弾きたい」という意志。
僕が、こういうふうに考えるようになったきっかけは、2000年です。『BTTB』のピアノソロツアーで、ベルリンでライブをした時のことです。あの時、いかにもブラームス的な美しい曲、ブラームスのような、美しい方眼紙上での点の置き方が出来て、悦に入っていたんです。そして、その曲をベルリンで弾いていた時、突然、「何で東洋人のオレが、ベルリンで、しかも1世紀以上前の作曲家みたいな曲を弾いているんだ? 一体オレは何をやっているんだろう?」というふうに思って、何が何だか分からなくなってしまったのです。演奏中に、アイデンティティが崩壊してしまったのですね。
もしかしたら、それまでは僕はニセ作曲家だったのかも知れない。サティみたいな曲も書ける、ブラームス的にも書ける! クラシックから、テクノやヒップホップまでジャンルを越えて、何でもOK、マルチなオレ! 何でも方眼紙に美しく点を置くことが出来る……。ボキャブラリーが多いのが自慢だったんですが、所詮それは、ボキャブラリーのレベルでしかなかったんですね。だから、僕は、今は、方眼紙に点を置くような音楽には興味を失いつつあります。
「ロハスクラシック」と銘打っていても、所謂クラシックだけでなくて、JAZZや、邦楽(純邦楽)も民族音楽もあっていい。邦楽の世界も、最近はクラシック同様、技術も上がって来て、取りくむ人も増えてきているようです。けどこれもJAZZなどと同じで、博物館に入りやすい危険な音楽です。ただ、上手に弾けるとか、古典どおりに弾ける、というのも危険ですけれど、西洋音楽、つまり「ドレミファソラシド」の音感だけで演奏してしまったり、打ち込みのMIDIと一緒に演奏してしまったりしていて、日本古来の音階や、それこそ方眼紙に書けないような、独特の感覚を失ってしまっている人が多い。これは完全にアイデンティティを破壊してしまっていますね。これはよくない兆候です。
ともかく「ロハスクラシック」のオーディションに、どんどん応募してください。上手い、下手は関係なし。スタイルも自由です。とにかく自分のコトバで話してください。
ロ: ありがとうございました。