霜後桃源記  

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仙台育英優勝 東北の悲願達成

2022-08-23 06:36:53 | 趣味
 仙台育英が夏の甲子園で優勝を果たした。
 三度目の挑戦で東北の野球人、野球ファンの「長年の悲願」を達成した。
 
 夏の甲子園は農作業の繁忙期と重なるのでジックリと観戦出来ないことが
多いが、今回の決勝戦は万全を期し最初から観戦することにした。
 何故なら、これまで三沢、磐城、仙台育英の決勝戦を固唾を飲んで応援して
来た一人として「東北勢初優勝の機は熟した」と確信でき、その歴史的瞬間に
立ち会わない手は無いと思ったからだった。

 以下、長くなるので項目のみ
・歴史の扉を開いたのが「東北の雄」仙台育英でよかった。
 須江監督の新たな指導法等は竹田元監督、佐々木前監督という両名将が
 培って来た伝統の上に花開いたものと思われた。
・「エースで四番」に頼る時代は過ぎ、複数の投手による継投でないと甲子園
 では勝ち進めないことが明確となった。
・NHKの解説を担当した大矢さん(元JR東海監督)のドンピシャで分かり易い解
 説に驚いた。事前に詳細な情報収集の裏付けがあったようだ。

(朝日新聞からの借用)

最後に、今朝の新聞記事を紹介することをお許し願いたい。

〇毎日新聞余禄(2022.8.23)
 岩手出身の平民宰相、原敬(はら・たかし)は「一山(いつざん)」と号
し、落款印に「一山百文」と刻んだ。戊辰(ぼしん)戦争時に新政府軍が東北
を蔑視して使ったとされる「白河以北一山(しらかわいほくひとやま)百(ひ
ゃく)文(もん)」をあえて用いた。藩閥政治を嫌った反骨精神の表れだった
▲高校野球史で優勝旗が「白河の関」を越えたことがないと聞くたびにこの逸
話が頭に浮かび、早く「白河越え」をと願ってきた。冷静に振り返れば、力の
差というより、運に左右された面がある▲1915年夏の第1回大会決勝。秋田中
が京都二中を八回表までリードしながら、守備の乱れで追いつかれ、延長十三
回にサヨナラ負けした。勝負の女神のほほえみ次第でジンクスは最初からなか
ったかもしれない▲戦後も69年決勝で太田幸司(おおた・こうじ)投手を擁し
た青森の三沢が愛媛の松山商との延長18回の激闘の末、引き分け再試合で涙を
のんだ。2年後には福島の磐城(いわき)が「小さな大投手」と呼ばれた田村
隆寿(たむら・たかとし)投手の大会唯一の失点で大魚を逃した▲仙台育英が
下関国際を破り、頂点に立った。89年に延長戦で敗れ、2015年は同点の最終回
に突き放された。01年春も猛追及ばず1点差の準優勝だった。コロナ禍の中で
高校生活を送った選手たちが4度目の挑戦で「100年開かなかった扉」(須江航
(すえ・わたる)監督)をこじ開け、歴史を作った▲21世紀の東北勢は春夏の
決勝に計9回進出し、他地域にひけをとらない。今大会の4強には福島の聖光学
院も残った。「白河の関」の呪縛が解けた東北勢が今後、さらに多くの優勝旗
を手にしても誰も驚くまい。

□朝日新聞社説「東北勢の優勝 被災した地域とともに」(2022.8.23) 

 長い大会の歴史で、東北勢が初めて頂点に立った。夏の甲子園を制したのは、
宮城代表の仙台育英だった。
 野球部員のうち現2、3年生は、ことしの3月11日、宮城県南三陸町にいた。
11年前、巨大津波に襲われた地域の一つだ。町内の各地をめぐり、語り部の話に
耳を傾け、地震が起きた午後2時46分に黙祷(もくとう)した。
 同校の教諭でもある須江航(すえわたる)監督は、4年前にチームを率いて以
来、折に触れて東日本大震災のことを語ってきた。
 激しく長い揺れ、傷ついた校舎、門に迫る海水、生徒とともに明かした夜――。
 当時、系列の中等教育学校で教えていた須江さんは、寮生活の生徒を実家に帰そ
うと、公共交通機関が動いていた新潟との間を、スクールバスで何度も往復した。
途中立ち寄ったスーパーでは、店のスタッフやお客さんが、食料など多くの品物を
差し入れてくれた。
 ことしの部員たちは、小学生になる前に被災した。思い出したくない体験をよみ
がえらせてしまうのではないか。逆に、東北以外の地域から進学してきた生徒に
は、あの日のことをどう伝えたらいいのか。模索の日々だったという。
 部員と監督の思いは、優勝という最高の形に先立ち、前年のチームが全国に発信
している。福島市出身で山形県に一時避難した主将が、春の選抜大会で選手宣誓を
引き当てたのだ。
 「答えのない悲しみを受け入れることは苦しくてつらい」「同時に多くのことを
学びました。当たり前だと思う日常は、誰かの努力や協力で成り立っているという
ことです」
 震災の年と翌12年の選抜大会でされた宣誓の文言から、コロナ禍も念頭にそれ
ぞれ一節を引用することを、他の部員や監督と話し合って決めた。そして「これか
らの10年」について、「私たちが新しい日本の力になれるように歩み続けます」
と思いを込めて約束した。
 3・11後も全国で災害が相次ぎ、多くの人が亡くなり、あるいは大切な家族を
失い、生活の基盤を壊された。コロナ禍は3年目の後半になっても収束への道筋が
見えない。
 それでもこの夏、甲子園だけでなく、多くの関係者の努力によって、全国高校総
合体育大会(インターハイ)や総合文化祭(総文祭)が開かれた。
 家族や仲間、地域のことを思いながら、勉強やクラブ活動に打ち込む。周りはそ
の姿から、明日、そして10年後につながる「何か」を感じ取る。
 若者が社会の担い手に成長していくための営みを、これからも大切にしたい。
コメント (2)
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