タイトルに入る前に気になることを一つ。いずれも熊野訳ですが、原語も同様或は類似の言葉でしょうから、疑問をかえる必要はないでしょう。
やたらと、「平均的」と言う言葉が出てくる。算術用語なんでしょうが、たとえば「平均的存在了解」なんて(段落21)ある。ほかにも沢山有る。ありふれたという意味なんでしょうか。非常に違和感があります。
さて、第六節「存在論の歴史の破壊と言う課題」。存在への適切な問いをさぐるのに「・・歴史の破壊」は必要なのでしょうか。どうしてそんな迂回路をとるのか。ずばり本題に入ればいいじゃないですか。
地震(大雪洪水でもいいが)で山中に孤立した村が有る。救出しようにも道路が使えない。こういうときは途中の道路を復旧し、通行を妨げている岩とか土砂を破壊して進まなければならない。そういうことなのでしょうか。どうも事情が違うようだ。直裁に問題にぶつかったらどうなのです。
そしてこの節で名前が挙げられているのは、デカルトとカントぐらいで哲学史の講釈にもなっていない。大げさなタイトルで期待していたのですが。
(59)「現存在の存在は、その意味を時間性のうちに見いだす」
時間ということばはここが初出だと思いました。大いに期待したのですが、「その意味を時間性のうちに見いだす」論証は続いていませんでした。読飛ばせば良いということなのか。
さて、第七節「探求の現象学的方法」。多分現象学とは何か、がわかるでしょう。世に「現象学」なる修飾句を付けた文章は腐るほどあるが、ほとんどこの修飾句を付ける必要がないのではないか、と常々感じております。これから読みますが多いに期待しております。