第七節C 現象学の予備的概念:
この節にはハイデガーには珍しく、気の利いた文章がある。比較的整理された文章である。
(109) 『存在は』隠されている、埋もれている、あるいは偽装されていることがある、云々
(112) それゆえ、発掘を目ざすにはまず、存在者自身を正しく提出することが必要である。
(113) 事象からすれば、現象学とは存在者の存在の学—つまり存在論である。
注:これは(103)の:「現象学」は研究の対象を名指すものではない(つまり方法論である)と矛盾する。
(113)同段落では現象学は解釈学であるとの言明が複数回繰り返されているが、解釈学とはなにか説明なし。範例的な現存在(ニーチェなど)の残したテクストを解釈するということかな。
(114) 存在の一般性は類より高い所にもとめられなければならない。(うまく逃げたな・・・つまり存在者を扱う普遍、類、種概念とは範疇が違う、だからもっとも一般的な概念である、と主張する、存在概念を修飾してもなんら影響は無いということなのだろう。)
だから、「存在とは端的に超越概念なのである(きまった)。
きめは段落117である。
(117) 以下の分析の中でもちいられる表現のぎこちなさと「つたなさ」については、つぎの注記をくわてもよいだろう。つまり・・
以下長くなるから引用でなく要約して示すと
「存在」を捉えること(あるいは体験すること)と「存在」を物語ることは別である。「存在」を物語る言葉は無いばかりでなく文法もないのである。それを文章で表現しようとするから、私ハイデガーの文章の表現はつたなくぎこちなくなるのである。了解されたし、読者殿:となる。
ちなみに、これを禅の言葉で表現すると不立文字(フリュウモンジ)という。言葉では伝達し得ない真理ということである。キリストの弟子の言葉でいえば「師は喩えならでは何事も語り給わず」となる。そしてキリストは、聖書の記述を読めば喩えの超天才であった。
この節は、H氏には珍しく明晰な文章がおおく、彼自身もそれを自覚した余裕からであろうか、上述の「おわび」が出たと思われる。