穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

 追いつめられて?「存在と時間」を読む-8

2015-04-08 07:25:10 | ハイデッガー

第七節 「探求の現象学的方法」を十頁ほど読んだ。読んだ、というのが正確な表現なのか。読んだ=理解した(同意した)、というなら視線をすべらせた、というのが正確かも知れない。 

まさにjargon(たわごと)の見本のような文章である。上品な読み手なら本能的な嫌悪感を覚えるところである(言い過ぎたね)。jargonには仲間内の用語つまり隠語という語釈もある。仲間内では十分に通用するのだろう。

これが現代哲学の二大潮流というのだとか。あと一つはなにかな。現象学という言葉を使った人は前からいるようだが、『売り』にしだしたのはフッサールからハイデガーそしてその追随者ということらしい。

19世紀の末には、科学の勃興に押されて哲学は影が薄くなった。それにつれて論理実証主義とか分析哲学が芽を吹き出した。大変だというので紙と鉛筆で出来る「哲学」を必死になって模索したわけだ。

特に脅威を感じたのは、認識論の生物学主義、心理主義であったらしい。哲学が諸学の王であるためには、紙(原稿と本)と鉛筆でも研究出来る基礎理論が欲しい。心情としてはわかる。 

前にも書いたが、確かに「科学哲学」には創造的なところはない。ウィトゲンシュタインがある著書の末尾に書いている様に、「種々語ったが結局何も語っていない」。そうだろう、分析的命題の分析に終始すれば、それは文章の推敲(明晰化)しかできない。新しい成果は総合命題でしか得られないのだから。 

中世、哲学は神学のハシタメだと言われた。現代の分析哲学、科学哲学は科学の端女(はしため)にすぎない(注)。科学の成果の整理分類は出来ても科学を先導することはできない。お手伝いさんなのである、ヘルプなのである。

注:20世紀の後半から分析哲学とスコラ哲学の類似性が研究されだしたのもその証左だろう。

フッサールやハイデガーがハシタメじゃ嫌だというのは分かる。しかしjargonに逃げ込むのは感心しない。

何回か前の記事にハイデガーは注釈書ではなくて、原文(翻訳でも可)で読むべきだと書いた。分かりやすいと書いた。上述と違うじゃないかと言われるかも知れないので補足しておく。

解説書とか注釈書というのは弟子、孫弟子、押し掛け弟子が書く。「師匠」という商品を売るためには商品を魅力的にパッケージしなければならない。また、当然のことながら師匠を賛美する。そのためには、出来るだけ分かりやすく、反感を持たれない様に、師匠の顔をお化粧をする。

つまり、師匠の素顔は見えなくなるのである。このような意味で原文を読むことを薦めている。師匠の素顔がわかるからである。