段落68; 「有事性の次元に向う方向へと探求のみちゆきを一歩だけすすめた、あるいは現象自身に強制されてその方向へと押しやられた、最初の、そして唯一の者はカントである。」
同段落訳注2; 「ここで予示されている方向で、カント『純粋理性批判』を解釈しようとした著作が『カントと形而上学の問題(1929年)』である。
ハイデガーの「1953年第七版へのまえがき」;
「存在の問いへの解明に付いては、この新版と同時におなじ書肆から刊行される『形而上学入門』が参照されるべきである」
さて、H氏が前書きで併読を指示しているのは自著「形而上学入門」だけである。「カントと形而上学の問題」には一言もふれていない。もっとも、上述引用から分かる様にこの分野でカントの成果は無いと言っている。
誤解のないようにいうと、カントの時間論は感性の直感形式についてであって、いうなれば認識論の鳥羽口というか入り口である。存在論で時間を論じている訳ではなく、ハイデガーの評価も妙である。
訳者の言う様に、「カントと形而上学の問題」と「存在と時間」を関連付けるのは哲学教師や哲学徒におおい意見の様に見受けられるが本当だろうか。勿論私は読んでいないのだが、読む前に評価選択するのは重要なことで、読書思考の経済のために避けて通れない。何時も言う様に「読む前書評」が大切なゆえんである。
そこでハイデガーが前書きで「カントと形而上学」の併読を指示しなかった理由を忖度すると、次のような場合が考えられる。
1:単純に書くのを忘れた。
2:あんまり、自著を色々読ませて読者に負担をかけるのを避けるために省いた。
3:1927年、1929年に書いてはみたものの、その後、存在論に時間を持ち込む観点からはカントの業績は参考にならないと気が付いた。
ちなみに、簡単な書誌をしるすと;
1927年 「存在と時間」刊行
1929年 「カントと形而上学の問題」
1935年 「形而上入門」講義
1953年 「存在と時間」第七版刊行
同年 「形而上学入門」刊行
これから先を読みますが、カントの感性論をいくら読んでも参考にはならなかったのではないかな。