白水社の文庫クセジュ「ポール・リクール」ジャン・グロンダン著杉村靖彦訳を読んだ。良書である。
文庫クセジュというのは日本で言えば新書なんだが、この新書というジャンルはページ数が制限されているためか、良い物がすくない。日本の新書と同様クセジュでも読後「なにこれ」と狐につままれたようなものが多いが、この本は要領がいい。
限られた紙数でまとめるというのは高い知的能力を必要とするものだ。訳者も書いているが紙数の関係で前半期の著作を集中して紹介している。
そこでご本尊の本を読んでみようかなという気になったが、何しろリクールは著作活動の期間が長く、著作の数が多い。どれが代表作ということもないらしい。つまり皆代表作。それで見当をつけるために、新曜社「テクスト世界の解釈学」久米博著を読み始めた。
これはクセジュより詳しいが、分かりにくいところがある(PR100頁)。専門家向けなのかな。前記の本では引用箇所と作者の地の文が渾然一体をなしていた。つまり地の文が引用文の解説として適切であった。あるいは解説文に適切な箇所の原著者からの引用があった。
それでまた、本屋に行った。今度は目次や索引それに解説から興味を持てそうな著作を探そうとしたのである。
リクールは現象学的解釈学者らしい。それにフランスの反省哲学のながれを汲む。反省哲学というのは初めて聞いたが、ドイツ観念論の延長線上にあるフランスの19−20世紀の潮流らしい。
前にも書いたが、解釈学というのに興味を持ったので、目次でその関連をあたったが、ないね。ないというのは理論的な説明がないというのではない、テクスト解釈というのは応用実例がなければほとんど意味がない。ところがそれと思われる箇所がない。
先ほどの久米氏の著書にはかろうじて20頁弱で「ダロウェイ婦人」、「魔の山」、「失われた時を求めて」という小見出しがある。まだ読んでいないがピックアップされた作品は極めて特殊である。あまり参考にはなりそうもない。
ただ、一つだけ私の従来からの解釈にちかい例があった。精神分析を論じたところで、エディプス・コンプレックスはフロイトのいうように幼時性欲から説明すべきではないという所ぐらいかな。
あと、解釈学の適用範囲だが、本来的な定義からいって、哲学、小説、詩、聖典などすべてにわたるはずだが、それらの解釈例が全くどこのもないのは理解出来ない。聖書のアダム神話にちょこっと散見したが。
まだ、解釈学界の百家争鳴状態に慣熟していないが、解釈単位として語ではなく文章をあげているのは常識的な正論だろう。こんなことは最初から専門家の間で共通認識があると思っていたが、リクールまでは語(パロール、ラングとも)単位の分析だったというも驚きだった。