穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

二種類の科学哲学

2016-05-22 20:26:18 | ハイデッガー

 二通りの科学哲学(ハイデガーの言葉でいえば個別科学の論理学)がある。

つまり、「遅ればせの」(後追いの)論理学と先導的な論理学である。つまりアポステリオリの科学哲学とアプリオリのそれである。

「存在と時間」は1927年に出版されたが、ちょうどいわゆる科学哲学が隆盛に向かうころだが、その後の科学哲学はすべて後追いの論理であるようである(科学哲学業界に詳しくない人間の印象である)。

科学研究を先導する方法論(哲学的)などないと思います。天才の超人的な頭脳スーパーコンピューターがぶん回って煙が出始めるころにぱっとひらめくのが通例ではないでしょうか。科学の最先端の開発のありようはそのようにクリエイティブなものだと思う。方法論やハウツウものを超越していると思う。むしろ方法論は創造性を委縮させるものだと思う。

 カントの場合、三批判書は本人によって予備学と位置付けられている。カントはさらに自然哲学(自然科学)をこの予備学の上に構想していたようだ。そちらのほうが本番であったらしい。

 カントにはその種のものが二つある。一つはまだ活発に研究していた1786年に出版された「自然科学の形而上学的原理」で、これは前の世代に確立されたニュートン力学の基礎をまとめたものらしい。つまり「後追いの、遅ればせの論理学」である。

 もう一つは遺稿の中に含まれているもので完成しなかった。「自然科学の形而上原理から物理学への移行」と題された大量のメモがあるらしい。これは「自然科学のための先導的な方法論」になる予定だったようである。

 これはカント全集に入っているのだろうか。どう問題を料理しようとしていたか興味はある。

 


ハイデガー哲学は科学に貢献できるか

2016-05-22 09:15:43 | ハイデッガー

この問いは「哲学は科学に貢献できるか」あるいは「科学哲学は科学の発展を先導できるか」と置き換えてもよい。

例によって(相も変わらず)ハイデガーの「存在と時間」を読んで改めて感じたことである。細谷貞雄訳ちくま学芸文庫

 序論第三節 存在問題の存在論的優位、より

ここで実証的実定的科学(自然科学、人文科学)における哲学(存在論)の優位が説明されている(ハイデガー立場から)。

 「基礎概念とは、それぞれの科学のあらゆる主題的対象の根底にある事象領域についての諸規定であって、この領域はこれらの諸規定においてあらかじめ理解され、そしてこの理解があらゆる実証的研究を先導することになる」 >> 同意 >> 正確に言えば、漠然と理解(了解)され、であろう。

 「かような研究は、実証的諸科学に先駆しなければならないし、」>> ??実態としては必ずしも先駆するとはかぎらない。

 「先駆することができる」 >>半分同意 ≪先駆することもある≫

 「この意味で行われる科学の基礎づけは、科学のその時々の現況を調べてその方法をつきとめるというような、遅ればせの論理学とは原理的に区別されるべき」 >> 同意 現代の科学哲学がこれに該当する。

 実証的研究の「本当の進歩は、そのようにして得られる実証的研究成果を蓄積して*事典*に収録することにあるよりも、むしろ事象についてこのように蓄積されていく知識の増加からたいてい反作用的に押し出されてくる、それぞれの領域の根本構成への問いのなかにある」>>ほぼ同意だが、物理学の場合などは*現在の理論に矛盾する観測データの出現が当該科学の根本的構成への問いを誘発しているといいたい。

 続く