床に散らかった昨日の新聞をとりあげた。彼は新聞を購読していない。引っ越しの時に得体の知れない新聞販売店の勧誘員に押し込み強盗の様にねばられるのを避けて彼らがチャイムを鳴らしても応答しなかったら腹いせにドアに落書きをされた。
新聞は気が付いた時に駅のキオスクで買う。興味を引くような記事等滅多にないから見出しだけ眺めて帰宅後床の上に放り投げておくのである。そんな新聞を半端に出来た翌朝の隙間の時間に手に取る。朝はまだ疲れていないし濃いコーヒーがきき出したので、比較的注意力を持って記事を読むことが出来る。窓側の照明だけ消してカーテンを引く。外が薄暗いうちにカーテンを開けると室内が丸見えになるので外が十分に明るくなってから開けるのである。
どんよりとした朝の空の下、ちまちましたマンションや町工場が通りの向こう側に並んでいる場末の裏通りである。雨が降るかも知れない。鱒添は鉛色の陰鬱な空を見上げた。彼は洗面所に行くと安全剃刀で髭を剃りだした。二、三日前から電気剃刀の外刃の端がささくれ立って来て痛くて髭が当たれなくなった。毎日かえりに替え刃を買おうと思いながら忘れてしまう。だから三日の髭というわけである。結構な髭面になっている。彼は結構髭が濃い。法事に行くとなるとやはり髭は剃らざるを得まいと思ったが昨日も替え刃を買うのを忘れてしまった。
引き出しの奥を引っ掻き回して、以前旅行の時に持ち帰ったホテルに備え付けてあったちゃちな安全剃刀を探し出して来た。錆びてはいないようだ。安全剃刀なんて使うのは何年ぶりだろう。彼はもう中学生の頃には髭を剃っていた。安全剃刀を使っていたのだが肌の弱い彼は唇の周りが荒れた。朝食の時にそれに眼を留めた父が電気剃刀を使うと良いと言ったのである。思い返してみると父が彼のためにアドバイスしたのはこの時だけだった。自由放任というか無関心というか。そうかと思うと時ならぬ時に理由も分からず怒りだすことがあった。ひりひりする顔をタオルで拭くと彼は着替えにかかった。喪服にカビが生えていないかなと心配しながらクローゼットの端から引っ張りだして点検する。よれよれになってはいるがどうやらブラシをかければ着られそうだ。ズボンの折り目は消えていた。本来ならアイロンをあてるべきなのだろうが、そんなものはない。そのまま着ていくことにした。
ひところ葬式が続いたことがあった。そう言う時機があるものである。ここ何年はそう言うことも無く喪服にもご縁がなかった。白いワイシャツを着ると黒いネクタイを取り出した。ネクタイの結び方を忘れているかも知れないと急に不安になった。