タイトルの「謂ひ」はハイデガーの著書は直接読むのがいいか、どうか、ということである。要するに加工調理せずに素材で味うのがいいのか、どうかという設問である。
哲学書の場合には特に留意すべき点である。ここでは「存在と時間」に限って述べる。彼38歳壮年期の処女作である。力が入っている。勿論哲学徒として論文は多く書いていただろうが、大著としては処女作であろう。
まず、結論からいうとハイデガーは色々な理由から生で食わない方が良い。煮るか焼くか二次加工したものを食う(読む)のがおすすめである。
哲学者によって生で十分賞味出来る人もいる。カントなどはその例だろう。カントの場合は自著解説などがあってこれもなかなか行き届いている。純粋理性批判に対する「プロレゴーメナ」がその例である。もっとも実践理性批判の解説書と言える「人倫の形而上学の基礎」はそうとも言えない。解説書から入るのがいいのはヘーゲルの精神現象学などである。ただ、こういう有名な書物には腐るほどの解説書があるからどれを選ぶかが大切である。解説書といっても90パーセント以上は読まない方がいいようなものであったりする。
さて「存在と時間」であるが、先にも触れた様に壮年期の大著、処女作であり肩に力が入っている。一種の狂躁状態で教祖の「お筆先」のように書かれている。木田元氏推奨の訳書(ちくま学芸文庫)でハイデガーに直接会って疑問をぶつけた訳者細谷貞雄氏の後書きがある。これは必読である。そこに
「私はこの本がさほど周到な彫琢を経たものではなく、かなり慌ただしく書き下ろされたものにちがいないという印象を持つ様になっていた」とあり、ハイデガーに面会してその印象を確認したと書いている。
ハイデガーは率直真摯に細谷氏の質問に答えたそうだが、自分でも昔の著書を読むと不安を感じる時がある、と述べたそうである。また、ハイデガー氏との逐行的な読み合わせで、印刷段階でかなりの誤植や、原稿に由来する誤記があった、と書いている。
この種の著作は第三者の解説者の手を経ることによって、素材の味は損なわれるが、著者の意図は整合性をもったかたちに整理されて伝えられる。これがハイデガーはまず煮るか焼くかして味うべきであると私が言う所以である。
勿論、ハイデガーになじんで来たら原著にあたって改めてその熱気にふれるのもまた楽しからずやである。
なお、解説書であるが、まだ三分の一しか読んでいないが、ちくま学芸文庫のマイケル・ケルヴェン著「ハイデガー『存在と時間』注解」はいいと思う。