完成前のアトランタのホテルにチェックインした直後にその電話は鳴った。コンクリートは打ちっぱなしのままで本当ならちゃんとお化粧してから開業すべきなのだろうが、大きな全国的なコンベンションでも開かれていて何処のホテルも満杯だったためか、開業前のホテルも宿泊客を受け入れていたらしい。部屋に入ると間髪を容れずにベッドの横に置いてあった電話がけたたましくピョンピョン飛び跳ねだした。何の警戒もせずに反射的に受話器を取り上げた。
「Who are you」といきなり高圧的な男の声がドスの利いた低音で誰何した。何だって、フロントで部屋を間違えたのかな、と考えて応答しようとすると突然相手は電話を切ってしまった。あっけにとられて手の中の受話器を眺めていたが、気持ちの悪い声だった。日本語でいえばスジ者の声のようだった。当地ではマフィアというのかギャングというのか、そんななりわいを連想させる話し方であった。
開業前のホテルの部屋が麻薬の取引に使われていて、そのつもりで電話して来て、電話に出たのが聞き慣れない声だったので、警戒して誰何したのかもしれない。そう考えると怖くなった。しかし考えたってそれ以上の知恵も浮かばない。くそ暑くてものすごい湿気のせいで汗でべとべとになった身体をシャワーでまず洗うことにしたが、今の電話が気持ちが悪かった。ひょっとすると、電話の声の主が部屋まで確かめにくるかも知れない。
ドアのロックを確かめチェーンをかけた後で、部屋で一番重そうな椅子をドアの内側まで引っ張って来てバリケードの様に置いた。心配なので慌ただしくシャワーを浴びると急いで部屋に戻りシャツを着た。ドアの椅子は動いていないようだ。ひょっとすると「アレ」かもしれないな。彼は考えた。
鱒添はスーツケースからバーボンの小瓶を取り出すとグラスに注いだ。ひょっとすると俺にも、と回想した。彼の親戚で大学生の頃に田舎のあぜ道でいきなり背後から声をかけられたのがいた。振り向くと誰もいない。声はどうも後方の高い方からしたらしい。「お前はソクラテスや孔子のようになれ」と言われた。それが彼の乱調子になったきっかけらしい。とうとう脂ぎった叔母さん達を親衛隊とする新興宗教の教祖になってしまった。
「あの電話は」と彼は考えた。仮象だったのかも知れない。いよいよ俺も其の気が出て来たのやも知れぬ。それにしてもタイミングが良い。サラリーマン生活十五年、社内の内紛なんか関係のない新入社員ではなくて、否やも応もなく巻き込まれて当事者となってしまっていた。薄汚い世界の先も見えてしまった。その後気味悪い声は電話をかけてこなかった。
あの電話は叔父の場合の様に空からかかってきたもかもしれない。サラリーマンとして日常的に非本来的生活をこのまま送るのか詰問する天の声だったのかも知れない。彼が会社を辞めたのはそれから間もなくでであった。