穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

デカルトは躓きの石

2016-05-28 08:09:34 | ハイデッガー

 中山道の道端に道しるべが立っていると思ってください。左大阪、右江戸と書いてある。左右もとより逆でも可である。

デカルト村の境に立っている道標には、右フッサール、左ハイデガーと書いてある。

仏教における「南無阿弥陀仏」のように「コギト エルゴ スム」という呪文がある。ラテン語には詳しくないが(もっともこんな簡単なフレーズに文法もへったくれもないだろうが)、「我思う 故に 我あり」と普通訳される。語順も同じようである。

ハイデガーのように粘着性のしんねりむっつりスタイルで解釈する。「我思う」と「我あり」の間につなぎで「故に」が入っている。この「故に」をどう解釈するか。左の句が先行するととるか、左の句が前提となると取るか判然としない。がまあそれはこの際問題にしない。両方の意味があるとしよう。

フッサールは繰り返し「デカルトの明証性」を称揚するからこの点では完全なデカルト・ファンなのであろう。ハイデガーはチト違うようだ。ハイデガーはデカルトを論難する、彼は我思う(思惟、精神、主観)ばかり取り上げて、我あり(存在)を全くないがしろにしている。それに、「我ありのほうが(論理的に<適切の言葉ではないが他に適当な言葉を思いつかないので)先行している」というわけである。

 

フッサールとハイデガーの共通点は意識の明証性に至る道も、存在の意味を明らかにするのも、おなじ乗り物に乗って行くということである。「現象学」という馬車である。この馬車がおなじものかどうかはよく分からない。にたようなものには見えるが。もっともハイデガーは現存在という脇道を迂回するわけである。

この書評も段々「小説のようなもの」に見えて来たでしょうね。時々このような取り留めも無いことを書き記さないと読んでいたことを忘れてしまうのでメモを取るつもりで書いている。