精神分析学者のユングによるとハイデガーは精神病者である(90分でわかるハイデガー)。分かりにくくて当然か。しかしこの種の著者の特徴として独特の迫力がある。私がハイデガーを読む理由である。といっても大して読んでいない。存在と時間に限っていえば
1:ハイデガー「存在と時間」注解、マイケル・ケルヴェン著、長谷川西崖訳
ちくま学芸文庫・・途中まで読んだ。
2:「存在と時間」,細谷貞雄訳 ちくま学芸文庫の訳者後書きだけ読んだ。
まず正確に読んだ範囲をご報告して本文に入る。
上記2:の後書きにこうある。
a: 「存在と時間」は、まだドイツ語にさえ翻訳されていません・・あるドイツ人の言葉
b:レーヴィットは、この本が外国語に訳せたら、それこそ奇蹟だとおもう、と言った。
ハイデガーを読んでまず奇異に感じるのは異常な「言葉あそび」、「言葉いじり」、「正当性の疑わしい語源いじり(とくに古代ギリシャ語)」であろう。
今回はbesorgenという言葉に軽くあたってみようと思う。上記1:の訳書では「配慮」と訳されている。他でどう訳されているかしらないが、どうもこれが代表的な訳語らしい。世界内存在である現存在が世界と関わり合うモードの基本的なものだと言うのだが、どうもしっくりと腑に落ちない。
独和辞典をみると配慮という語釈はない。これをbeとsorgenに分解してみるとbeは強調の意味、sorgenは配慮するという訳語がある。そうなら、besorgenの訳でそれに相当する訳語が辞書に記載されているべきではないのか。
ちなみに上記のケルヴェンの著書のなかでしばしば引用されているマコーリとロビンスンの訳書「Being and Time」によるとconcern, provide, make provision
などの訳語があてられている。配慮とはニュアンスも違う。関心というか、あるいはあらかじめ足りない物を準備して供給する、または将来に備えるなどの意味であり、これならすんなり原文の意が通じる。
気になったので他の意味の通じない訳語を当たってみたが随分と辞書や英訳と違うところがあるようである。この様に訳す根拠は何なんだろう。
続く