5月の連休明けの太陽光線は調教のない休日開けに覆馬場に放たれた休養十分の性悪サラブレッドのように皇居前広場の芝生の上をスタンピードしていた。焼かれた芝生の照り返しは三四郎の顔をフライパンの上のたまごのように炙った。彼の眼はチカチカしてきた。眼鏡のつるは側頭部を強く圧迫して疼痛を与えていた。三ヶ月前に買い替えた眼鏡の度はもう合わなくなって来たらしい。かれは鞄からアスピリンの箱を取り出した。今朝飲み忘れたせいか、注意力が散漫になっていた。都庁での失態もこれが影響しているのかも知れない。
彼はアスピリンの錠剤を一粒押し出すと口の中に入れて噛み始めた。酢酸のような写真の現像液の様に嫌なにおいが口の中に広がった。彼は噛み砕いたアスピリンを舌の下に押し込んだ。彼はアスピリンを水で飲まないのである。こうやって噛み砕いて粉末にして舌下に押し込む。この方が口腔の粘膜から薬が直接体内に吸収されて効果が格段に早く出る。一錠目を食べ終わると彼は二錠目を食べ始めた。三錠食べた後でようやく三四郎は人心地がついた。
この間も女から電話がかかってきた。階段を上がって来た母親が「女の人から電話よ」と彼の顔をじっと見ながら告げたのである。母親としての母は分かるのだが、女としての母親というものが最近三四郎には分からなくなった。その時は心配している母親ではない顔をしていた。
三四郎は眼を伏せて母親の横をすり抜けると下に降りて受話器を耳にあてた。全然知らない女であった。声からすると想定していた年齢より相当な年配である。彼が想定した様に同級生の女の子ではない。おまけにタバコ焼けをしたようなしわがれた声である。
「雑誌**実話を見たんですけど」と女は言った。ぜんぜん心当たりはないのだが、直感的にこれはヤバいぞ、と彼は身構えた。その雑誌は彼の部屋にも母親の眼に触れない様に押し入れの奥に隠してあるエロ雑誌である。彼はときどき買っているのである。マスターベションの時に利用しているのだ。だからその雑誌の名前を聞いた時にはぎょっとしたのである。
台所の方をうかがうと階段をいつの間にか降りて来た母親が台所の影で聞き耳を立てている気配である。彼は逆上してしまった。急いで電話を切ろうとしながら、電話のかけ間違えですよ、と言って受話器を置こうとすると、受話器の下から
「あなたは鱒添三四郎さんでしょう」と女が叫んだ。おもわず彼が再び受話器を慌てて耳にあてると、女が言うには、なんでもその週刊誌の「おたよりください」とかいう投稿欄に彼の名前が出ているそうである。
「違います、違います」というと彼は受話器を投げつけて二階に駆け上がった。
しばらく様子をうかがっていたが母が階段を上がってくる様子は無かった。彼は急いでアスピリンの箱を取り出すと三錠ほど食べて気を鎮めようとした。