テレビのニュースで日本人の平均寿命が80歳に達したと聞いた時に三四郎は突然マラソンの折り返し地点を通過したことに気が付いた。
「これからは、高高度水平安定飛行だな、いやそうも行くまい。せめて低空でも安定飛行で行きたいものだ」と思ったものである。「低空で飛ぶから気流の悪い所に遭遇することもあるだろう」。むかし、三千メートル当たりをうろうろして日本全国を飛び回っていた頃を想起したのである。気密装置もない飛行機で頭はがんがんするし、耳はキンキン鳴る。プロペラの騒音と振動は腹にひびく。乱気流でしょっちゅう揺れては吐きそうになった。
彼は人生でかって一度も自分で決断したということがない。強いて言えば決断を拒否するという意志が、つまりすべてにノンというのが彼の性向であったのである。しかし、三年前に人生で初めて一つの決断をしたのである。すべてにノンというかわりに一つの俗っぽい具体的なことにノンを突きつけたのである。会社に辞表を出したのである。その辺の事情を記述しても一つの面白小説が出来ないことはないがそれはしばらく脇に置いておこう。
大体、大学に入る時も会社に入る時も彼には決断をしたという自覚も無かったし、まして気負いも抱負もなかった。彼の性格からして退社後の展望等まったくなかった。脱サラなんて馬鹿馬鹿しい気負いは彼には無縁であった。
彼は数年前に欧州に出張したときに、休日にジプシーの占い婆さんに見てもらったことがある。ニースの裏通りにある婆さんの店の前を通りかかったのである。その婆さんの占いは彼を感心させた。黙って座ればピタリと当てる、というのが占い師の才能であるが、よく言うことが当たっているのである。
そのなかで「あなたは一生小金には困らない」というのが一番印象に残った。「小金」という言葉に少し引っかかったが三四郎の経験にも合致していた。入社後友達に誘われて始めた競馬でまだ手ひどく負けた経験がない。別に収支をつけている訳ではないが、感覚的には二十年近くやっていて、かなり浮いているのではないかと思われた。また、株も会社に入ってからちびちびとやっていたが、これもどうやら浮き沈みが無かった。競馬ほど身を入れてやらなかったがマアマアの成績じゃないかな、と思っている。
そこにこのジプシーの婆さんの「保証」である。会社を辞める時にこの時の魔女ヅラの婆さんの占いがどこかで彼の「決断」をプッシュしていたことは間違いないようだ。