穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

カフカとドストエフスキーにおける「父」の変換語

2016-10-02 08:24:28 | カフカ

「父」はカフカの場合いうまでもなく体罰の執行者(審判)であり、不可侵、不可越な壁(城)であり、追放者(アメリカあるいは失踪者)である。

彼の場合、社会や国家とか組織は父のイメージを仮託したものであり、評論家達の定説になっているような物語の対象ではない。変身でもいわゆる不条理は「父」を表していると見るべきだろう。

カフカには未送達の遺稿メモに「父への手紙」というのがある。

ドスト作品には「悪霊」まで父が出てこない。そこで初めて「育児放棄者」として「父」が出てくる。後期長編群個々で見ると;

罪と罰:全く出てこない

白痴:幼時に死別(だったかな、ようするに未出)

悪霊:戯画化されたオールド・リベラリストとしての育児放棄者

   成人してテロリストとなった息子とパトロネスの家で再会する。

未成年:育児放棄者、成人してから息子と再開

カラマーゾフの兄弟:

   父は育児放棄者である。物語では成人した息子達と再開して物語が進展

 

育児放棄と子殺しは実質的に同じであるから、父がある程度の役割を果たしている作品では父は同じ扱いである。

よくカラマーゾフは父殺しのミステリーであるというが間違いである。フョードル(だったけ)殺しは物語のアヤにすぎない。