予備校を出るとベレー帽の女が立っていた。気づかぬふりをして通り抜けようとすると女は前に立ちふさがった。立ち止まらざるを得なくなった。女は笑っている。三四郎は初めて気が付いた様に「ああ」と言って曖昧に顔をゆがめた。
水道橋の駅の方には曲がらずに神保町のほうに歩き出すと彼女も並んで付いてくる。夕暮れ時の人通りの多い白山通りを背の低い彼女はちょこちょこと走るように付いてくる。先ほどの国語の講義で教師があまりにも馬鹿馬鹿しいことをいうので休憩時間に横に座っていた彼女に教師の批評をしたが彼女が大変熱心に感心した様に聞いていたのだ。それっきり忘れていたのだが、その話の続きを聞きたいのだろうか。
彼女と会話をしたのは初めてだが、ベレー帽が教室では前から目立つ存在であった。一緒に歩くと通行人が皆注目するようで落ち着かない気持ちにさせられた。どういうわけか彼女はどこまでも付いてくる気らしい。通行人の好奇心に溢れた視線を避けたかったのかもしれない。近くの薄暗い喫茶店に入った。どちらが誘ったのだろう、と三四郎は思った。知らない間に喫茶店の座席に向かい合って座っていた。きっと、俺が誘ったんだろうな、と三四郎は曖昧に考えた。というのはコーヒーが運ばれてくると「こんな所でなくても良かったのに」と彼女が不満そうに呟いたからである。
そうすると、俺が誘ったということになるのだろうな、と彼は考えた。所謂名曲喫茶という店らしい。クラッシックのレコードが店内を流れている。中の照明はムードを出すためか、静かに音楽を聴けるようにするためか、薄暗い。座席の背もたれは高くて周りの客席はよく見えない。
彼女が「どうしたの、深刻な顔をして」と言ったのが急に耳に飛び込んで来た。彼は彼女の「こんな所に来なくても」という言葉に引っかかって考えていたのだ。注意がおろそかになっていたらしい。彼女がおかしそうにわらっている。三四郎は初めて彼女の顔を正面から見た。
子供の顔の様にお月様の様に丸い。顔色は妙に白い。若いのに白粉でも塗っているのだろうか。香水の匂いが強かった。鼻がサイコロのように四角い。磨き込んだ様に光っている。
「深刻な顔をしていますか」
「ええ、とても。ベートーベンみたいに」
「よくそう言われるんですけどね、なにも考えている訳ではないんですよ。放心状態なんですね。それが深刻に見えるらしい」
三四郎はまだ考えていた。「こんな所に来なくても」と言ったのはどういう意味だろう。彼女に聞けばいいのだが、なにか本能的にそれは危険だと彼のこころに告げるものがあった。