穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

N(22)章 四谷荒木町

2016-10-21 09:00:24 | 反復と忘却

夜の十時、平島から電話がかかってきた。これから四谷のバーに来いと言われた。平島は連絡がないときは全然ないが、電話をかけてくる時は時間にお構いなしだった。夜の十二時過ぎに電話をかけてきて朝まで引き止めることもあった。 

三四郎はもう寝ようと思っていた所で断るのだが、しつこく誘われて結局いつものように平島の要求に応じてしまう。着替えをして四谷に着いたのは午後十一時だった。荒木町のバーだと言うのだが土地勘のない三四郎には右も左もわからない。さっき聞いたバーの電話番号に公衆電話ボックスから電話をかけた。場所を聞いてバーに入った時にはもう新しい日になろうとしていた。

バーは安アパートの建物の外階段を上って行くと二階に入り口があった。バー ダウンタウンと看板が出ている。ドアを押開けてなかに踏み込むと真っ暗な店内はむっと籠ったタバコの煙が目をちくちくと刺激した。暗闇に目がなれてくると、店は狭くて細長く奥行き三、四間で鰻の寝床のような空間を真ん中でカウンターが中央分離帯のように区切っている。平島は一番奥のスツールに腰掛けていた。カウンターの中には中年のバーテンがひとり、平島の横には連れらしい若い女がいた。そのほかに客は和服姿の女がひとりいた。顔はよく見えないが雰囲気やガラやうなじの感じから判断すると50代の雰囲気だ。もっとも素人では無さそうだからかなりの誤差があるだろう。 

「何だ、用でもあるのか」と三四郎は仏頂面で聞いた。

「まあ何か呑めよ」と平島はいった。バーテンがよって来た。

三四郎はバーテンの方を向いて「アブサンはある」ときいた。

彼はぽかんとしていたが、しばらくして「あいにく切らしていて」と返事をした。

「それじゃ水でいいや」というと平島の連れの女が「ふふふ」と笑った。

平島が「そんなことをいうなよ、まずビールでも呑め」と取りなす様に言った。

「そうか、それじゃ小瓶はあるのか、瓶のまま持って来てくれ」と三四郎は言った。バーテンがもってきたビールを自分でコップに注ぐと三四郎は顔をしかめて一口飲んだ。「ところで何だ」と彼は質問を繰り返した。

「別になにもない。君と話したくなっただけさ」と平島は言った。「そうだ、報告することが一つあるな。こんど専攻を変えた」

へえ、文学部を辞めて法学部とか、と聞くといや心理学を止めて哲学をすることにした、と彼は答えた。

「ふーん、理由があるのか、君のことだから理由なんてないだろうな」

「馬鹿馬鹿しくなったのさ、それに心理学というのは女子学生がやけに多くてな。雰囲気が悪い」

「哲学を専攻するのは男ばかりか」

「そうでもないが、いわゆるぶりっこはいないな。そのかわりぎょっとするようなのはいる」

「ぎょっとする女の方がいいわけか」

「それはそうだろう」