「そういえば俺にも一つ報告することがあるぜ、ぎょっとする女に会って、ぎょっとすることをしたんだ」
平島の連れの女が三四郎のほうへ顔を向けた。正五角形と台形の中間の輪郭をしている顔だ。目が大きくバーの暗闇の中で猫の目の様に光っている。鼻筋は太くて長い。口は間口二尺半と長くて唇はやや厚めである。我の強い職業婦人(キャリアウーマン)という感じだ。あきらかに平島より年上で30歳にはなっているだろう。平島が狙いそうな女だ。
「通過儀礼か、たしかお前はまだだったよな」彼はグラスに入っている茶色い液体を一口飲んだ。
「なんだって、うん、そうかもしれない。お前はやたらと民俗学的用語を使うな」
「よかったな。鱒添君の門出を祝して乾杯をしよう」と彼は女も誘った。液体が皆の胃袋に到着すると平島が催促した。
「それで?」
「それで?」
「どんな塩梅だった」かれはまたグラスを傾けた。三四郎はだまっていた。どうっていわれても友に語るほどの感銘はなかったのである。それに一癖有りそうな女性だが、未知の女の前であまり露骨な話をするのをためらったのである。
「遠慮しないで話せよ。彼女に気を遣っているのか。そんな心配は要らないぜ。彼女はその道のプロだからな」
というと、AV女優かな、あるいは風俗の女か、と三四郎は考えた。
「彼女は週刊誌の編集者なんだ。雑誌にエロ小説を連載している某先生のためにネタを蒐集して、出来上がった原稿を毎週貰ってくる役さ。だから免疫はある」
「それじゃ彼女のお役に立つ話はできないな。なんていうのかな、肩すかしを食った感じでね。これってこんなものなの、っていうほど平板な展開でね」
女が平島の背中から話した。「ひょっとして期待が大きすぎたからかな」
ふむ、うまいことを言う。
「女性の場合はどうなんですか、人それぞれでしょうけどね」
「女性の方は、それはもう大変な期待をしているのよ」
「恐れとか言うのはないんですか。男の場合恐れというのはないけど、女性の場合は恐怖心があるんじゃないですか」
彼女はタバコを深く吸い込んで猛烈な勢いで吐き出すと、恐れなんて、と馬鹿にした様に言った。「今時の女性にはそんなものはないわよ。あなたの相手は未通娘だったの」
「えッ?」
「初体験だったの」
「いや経験者でしたね」
「じゃあ彼女がリードしたんでしょう」
「そうですね、ツアコンみたいだったな」
「きっと期待が大きすぎたのでしょうね。想像していたほどでなかったというのは」
なるほどそうかも知れない。
平島が言った。「おれも思い出したよ。お前ボヴァリー夫人を読めよ」
「なんだい、それは」
「フローベールの小説さ、期待が大きすぎて欲求不満になり不倫を繰り返して破綻する女の物語だ」
また平島の読書指導が始まったと三四郎は苦笑した。