彼女はスプーンでカップの中の紅茶をかき回している。「左利きなんですか」と三四郎は聞いた。彼女は上目遣いに三四郎の顔を見上げて頷いた。
「気になりますか」
「いいえ、そう言う訳じゃないんです。もともと高校時代までは右と左が区別できなかったんですよ。例えば心臓は左側にあるというでしょう。自分のからだのどちら側が左か分からなかった。からだの真ん中と言われれば分かるんですけどね」
かれはまじめに言ったのだが、彼女は冗談と思ったのかおかしそうに笑った。
「本当に?」
「本当に。体操の教師なんかに左足を出して、とか右肩が下がっているとか言われても分からなかった」
「「へえ、変わってるわね」と彼女はまだそれがからかわれていると思ったらしい。
「人は何時頃から自分の右と左が区別出来る様になるんだろう」
「そりゃあ子供の頃でしょう。わたしの弟なんて五歳だけどもう分かるわよ」
なるほどやはり俺は異常なんだ、と三四郎は思った。いまでも右と左を区別する時には精神を集中しないと出来ない。それが車の教習所に行かない理由なのである。
「だけどね、他人の左利きとかは瞬時に判別出来るんですね」
彼女は呆れた様に彼を見た。「だから私が左利きだってすぐ分かったのね」
三四郎はショルダーバッグから小型のノートを出すと平島への質問事項を書き留めた。
「何を書いているの」
「僕の友達が大学で心理学を専攻しているんですよ。今度彼に聞いてみようと思って。子供はいくつから左右の判別が出来る様になるかの研究があるのかなって。僕は記憶力もとても弱くてね。すぐ忘れちゃうんで、なんでもメモするんです」
「お友達はもう大学の専攻課程なの、あなたは浪人何年目なの」
「恥ずかしながら三浪です」
「へえ、若く見えるけど。一浪くらいかと思ったけど」
三浪しても時々高校生と間違えられることもあるのだ。
「三浪と言うと私と同い年かな、遅生まれなの」
「いえ、早生まれです」
「そうするとわたしのほうが年上だわね」というと彼女はバッグからハイライトを取り出して店のマッチを擦って火をつけた。たばこを左手の人差し指と中指の第一関節あたりで挟む。様になっている。吸い慣れている感じが出ている。
「女性の三浪というのは驚いたでしょう」
「いえ、別に」と三四郎は慌てて答えた。
「私は四国の太平洋側の小さな漁師町で育ったのよ。高校を出てからしばらくは松山のバーで勤めていてね」と話しだした。
「ちいさなスナックだったけど、結構いろいろとあってね。先が見えちゃったというのかな、これじゃいけないなんて遅まきに思いはじめた訳」
「どこを狙っているんですか」
彼女は泥臭いことで有名な東京の大学の名前をあげた。文学部を目ざしているそうだ。そういえば予備校の休み時間には大抵小説らしい文庫本を読んでいた。