穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

18:来訪者

2021-01-31 07:38:07 | 小説みたいなもの

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受話器を置くと待ちあぐねたように受信音がなりだした。広報室長の原口からだった。

「新聞記者のなんとかいう、山もととかいう人物から電話があって例のコロナの新薬について聞きたいというんだな。これから来るというのだが、君に対応してもらったほうがいいと思うんだがな」

「そうか、実は先ほど副社長から連絡があってね、取材の話は聞いたんだが、まだ余裕があると思ったんだが、馬鹿に早く来たな。何時の予定なの」

「なんか近くに来たからついでに寄るとかいっていた。おっつけ来るような感じだったな。こっちは新薬開発のことはマスコミの報道くらいしか知らないから君に出てもらったほうがいいと思うんだ。こちらに来てくれるか」

「わかった。すぐに行くよ」

 彼はなにか資料を持っていこうかと思案したが、結局やめたほうがいいと判断して手ぶらで出かけた。自社ビルの二十二階から上りのエレベ-ターに乗ると先客がいた。大きなショルダーバッグを肩にかけている。何か知らないがなかに一杯詰まっているらしく、ぱんぱんに膨らんでいた。相当に使い古された茶色の革製のバッグで大型のボストンバッグに肩掛け紐をくっ付けた様な代物である。表面のいたるところに亀裂が走り、しわが寄って破れかかっている。上半身はどういう職業なのか異常に発達している。その割には脚が短い。腹は突き出している。あまりこのビルでは見かけない風体の人物である。

 河野は行き先のボタンを押そうとしたが、すでに目的階のランプは点灯していた。目的の三十階についてドアが開くと河野は奥のほうにいた先客に先に出るように促した。妙な風体だが自社の人間ではない。つまり来客であるから敬意を表して遠慮したのである。男はブスっとした顔で河野の前を通りホールに出た。河野は三完歩ほど遅れてエレベーターを出た。その男は河野が行こうとしたオフィスのほうに進んだ。ひょっとすると彼は取材に来た人間なのだろうかと考えた。

 案の定、彼は広報室に入っていった。ドアの近くの席に座っていた若い女性課員に来意を告げているところだった。彼女は立って原口のところに行って指示を仰いでいる。彼女は来訪者のところに戻ってくると「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」といい、客を会議室に先導した。彼女は戻ってくると河野に「部長もどうぞ会議室へお出でくださいとのことでした」と言った。

 河野が会議室に入ると二人は名刺を交換して挨拶を交わしていた。入ってくる河野を見ると「こちらの方がコロナ新薬のことで取材に見えた方だ」というと、来客のほうを向いて「こちらが研究開発部長の河野でございます」と言った。

来客はまたポケットを探って名刺入れを取り出すと一枚抜いて河野に渡した。名刺にはやや大ぶりなボールドタイプの活字で山本一郎と中央に印刷してある。会社名も組織名も肩書も印刷していない。河野は失礼だと思ったが、念のために名刺を裏返してみた。白紙である。

「ははは」と来客は笑った。「手品じゃありませんからウラはありません」

これで座の雰囲気はすこし和らいだ。原口は、どうぞおかけください」と声をかけた。