まるきりポット出の著者なら見当もつかないが、ハイデガーの様に多数の著書、研究書籍、解説書籍、情報が氾濫している大家なら見当をつけるのに事欠きません。
そこでいくつかの予想軸をたててみました。
「存在への問い」、これが売りですな。究極の問いです。根本の問いです。彼の専売特許です。一体ハイデガー(以下H)氏は問いをたてた時に答えが得られるとおもっていたかどうか。これが予想軸の一つです。
とにかく答えが出ようと出まいと問い続けることが大切だと逃げる手はあります。こうなると禅の公案と変わらない。
もっとも超法規的に逃げる手は昔からある。回心、啓示、直感、霊感、そしてH氏の豊かなギリシャ語の蘊蓄から導きだした「存在の秘密の開示(不伏蔵性、非隠蔽)、本来性の回復(これらはいずれも論理のジャンプです)」。
究極の問い、ということはそこから先へは進めない。ということは答えが出ないのが究極の問いである、というのが哲学の常識だと思っておりましたが、どうH氏は捌いてみせるのか。
ウィトゲン石(以下WS)の言うような意味での「有意味な問い」なのか、というのが第二の予想軸であります。新カント派、論理実証主義のながれにあるWS氏流に言えば検証可能でない答えが、あるいは証明方法が無い問いは「無意味」な問いである。どんな答えをだしても「ご随意に」ということ。正しくもないし、間違いでもない。
要約すると、哲学文法上は問いの構文そのものに問題がある。WH氏流にいえば検証方法がない。つまり答えが出ても採点しようがない。
しかし、第三の道があるかもしれません。そのへんが予想のキモかな。もっとも、H氏はとうとう最後まで答えを出していなかったと読んだことがありますが、どうなのか。そうだとすればH氏は賢明でした。採点を免れたわけですから。
つづく