穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

「存在と時間」の読み方―2

2015-04-02 06:51:55 | ハイデッガー

まるきりポット出の著者なら見当もつかないが、ハイデガーの様に多数の著書、研究書籍、解説書籍、情報が氾濫している大家なら見当をつけるのに事欠きません。

そこでいくつかの予想軸をたててみました。

「存在への問い」、これが売りですな。究極の問いです。根本の問いです。彼の専売特許です。一体ハイデガー(以下H)氏は問いをたてた時に答えが得られるとおもっていたかどうか。これが予想軸の一つです。

とにかく答えが出ようと出まいと問い続けることが大切だと逃げる手はあります。こうなると禅の公案と変わらない。

もっとも超法規的に逃げる手は昔からある。回心、啓示、直感、霊感、そしてH氏の豊かなギリシャ語の蘊蓄から導きだした「存在の秘密の開示(不伏蔵性、非隠蔽)、本来性の回復(これらはいずれも論理のジャンプです)」。

究極の問い、ということはそこから先へは進めない。ということは答えが出ないのが究極の問いである、というのが哲学の常識だと思っておりましたが、どうH氏は捌いてみせるのか。

ウィトゲン石(以下WS)の言うような意味での「有意味な問い」なのか、というのが第二の予想軸であります。新カント派、論理実証主義のながれにあるWS氏流に言えば検証可能でない答えが、あるいは証明方法が無い問いは「無意味」な問いである。どんな答えをだしても「ご随意に」ということ。正しくもないし、間違いでもない。

要約すると、哲学文法上は問いの構文そのものに問題がある。WH氏流にいえば検証方法がない。つまり答えが出ても採点しようがない。

しかし、第三の道があるかもしれません。そのへんが予想のキモかな。もっとも、H氏はとうとう最後まで答えを出していなかったと読んだことがありますが、どうなのか。そうだとすればH氏は賢明でした。採点を免れたわけですから。

つづく

 


「ヒトラーの超人、マルチン・ハイデガー」

2015-04-01 18:30:17 | ハイデッガー

突然ですか本日徘徊中に立ち読みした本の報告です。

白水社「ヒトラーと哲学者」イヴォンヌ・シュラット(憶えにくい名前ですね)

4104円と高価なので例によって立ち読みしました。タイトルの「ヒトラーの超人 マルチン・ハイデガー」の章だけ30ページほど読みました。

なかなか大した人物でしたな。いちいち出典を上げているから信用していいのでしょう。もっとも同様のノンフィクションは戦後早い時期から多数出ているのでしょう。それらの再録、要約版かもしれませんが、便利なことには変わりがない。

著者の年齢からすると、この本は本国でもそんなに古い本ではないようです。立ち読みなんでその辺の書誌情報は控えて来ませんでした。

ハンナ・アーレントあての手紙なんか多数出ている。これは彼女が生前提供したのか、あるいは彼女の遺品から出て来たのか。巻末の参照リストを観れば分かるのでしょうが、店員の目を気にしながらの立ち読みなのでご報告できなくてすみません。

いずれにせよ、彼女は終生愛人ハイデガーの手紙を大切に保存していたわけです。 

これで読むと、ハイデガーはギンギラギンの突撃隊長ですな。これほどとは思わなかった。これでニュルンベルグ裁判で被告に成らなかったのは不可解です。それが正しいというのではない。東京裁判で拓殖大学教授だった大川周明がA級戦犯として訴追されたこととの比較で著しい恣意性が明瞭だからです。大川周明が訴追されるなら、ハイデガーが戦犯指定されないのは著しく公平性を欠いています。

この点から分かるのはナチス裁判をなぞった東京裁判がいかに不当でインチキな茶番劇であったかということです。

注:大川周明氏は公判中精神に異常をきたし、免訴となっている。

 


「存在と時間」の読み方

2015-04-01 08:21:47 | ハイデッガー

前回の続きになるが、そんなわけで該書を読むべきかどうか。大きな問題です。時間がかかり、いらいらし、腹を立て続けることは十分に予想されます。 

私の特技に読む前に書評をするというのがあります。そこで今回は「読む前評価」の試みです。

白鳥の湖の話をしましょう。なに、ベートーベンの第九でもいいのですが。読書というのは、とくに哲学書の場合は、読者は演奏者です。うまい人もいれば、下手な人もいる。うまい、下手とは別の次元で解釈の仕方もありますが。

プロの指揮者、あるいは舞台監督等はうまい(プロの)の解釈者であり彼ら自身が創作家です。そしてその解釈は細かく(つまり専門的に観れば千差万別で)いわばそれ自体が創作というか芸術の生産活動であります。

「白鳥の湖」は何百回、何千回も演奏されているでしょう。それでも世間は公演を求め続け、「芸術家」の創造活動は無限に続いています。

哲学者の場合も同じです。もっとも中には、おれは世界で初めてのことをしているのだと力む哲学者がいます。ハイデガーはそういう人らしい。あるいはハイデガーの追随者、ハイデガーで食っている大学教師が師を神輿のように担ぐのかもしれない。

いくら「読む前書評」が得意といっても、何も読まずには出来ません。それで解説者、書評家の短文を浚うわけです。原文を全部舐める様に一生かけて読まなければ駄目だとおっしゃいます。まことにごもっともであります。

この種のレジュメがまったく無意味だとしたら何のために書評家がいるのだと、そのレーゾンデートルが問われます。つづく