穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

カフカの生涯

2016-10-08 02:33:15 | カフカ

 カフカの長編のすべてと短編の多くが死後大分たってから友人マックス・ブロートの手でまとめられ公刊された。その後半世紀以上にわたっていろいろな人の手、出版社によって編集され刊行されているということである。

そこで他の作家ではあまりしないことだが、初歩的でもある程度書誌的な知識が必要だろうと思い池内紀氏の「カフカの生涯」を読んだ。

カフカというのはまめな男だなという印象である。とくに女性に関しては。そして小説執筆に関しても実に「まめ」である。

女性関係の記述は30歳前後から増えてくる。それまでは当時の社会の慣行(?)にカフカも従いレストランのウェイトレスなどに話を付けて食堂の二階を利用するとかその手の連れ込み宿を利用していたらしい。性欲処理にはさして普通の青年とかわりが無かったようである。

それで思い出したが欧州の知識人の慣行(あるいは、だった)なのだろうな。ミラン・クンデラの小説にもそんな主人公の日常が出てくる。たしかサルトルの「嘔吐」の主人公の性欲処理方法でもあったような記憶があるが。

ま、それはともかく、閑話休題(だぶるね)、カフカの性欲処理方法も相手が不特定多数で、それほど特殊ではないから「カフカの生涯」でも詳しい記述がない。

それが三十歳ころから特定、同階級というか、素人(たち)というか、の女性との集中的関係が増えてくる。これが伝記的にも書きやすいのはカフカが一日に多い時には三通も四通も手紙を書き、相手の女性達がそれを大事の生涯保存していたから伝記作者は書きやすいのである。これが結核の進行と奇麗にシンクロしている。

この辺が印象深かったのは私の良く知っている人間も結核で異常に性欲が昂進した例を見ているからである。結核患者は普通人以上に性欲がたかまるらしい。結核は消耗性の病気だから女性関係は控えなければいけないのだが、押さえきれなくなるらしい。しかもそれが患者の一方的なものでなく、結核患者というものは女性にたいして強烈なホルモン効果を生む物らしい。なにか未発見のフェロモンでもだしているのか。

カフカの場合、それは短期集中的である。つまり一年ほどのあいだに500通ほどのラブレターを交換するがそれで終息する。焼けぼっくいに火がつくこともある(フェリーツェの例)。しかし今度は別の女性に熱を上げる。病をおして無理な長距離旅行をして女に会いにいく。30歳以降そういう女性が数人いた。一種の艶福家だね。女はまめな男に弱い。どう考えても結核菌が脳の性欲中枢を刺激したとしか考えられない。

カフカが偉いのはそれらの女性との関係を作品に持ち込まないことである。作品にまったく反映させない。この辺は感心する。日本の私小説でも昔は結核患者が主人公である(つまり作者自身である)。そしてカフカの例の様に女性関係がにぎやかである。そして、それを作品に持ち込む、私小説という作品に。ま、一昔前の日本の私小説というのはそう言う物だった。

次回は仕事にもまめであったカフカです。

 


第N(17)章 ベレー帽の女

2016-10-05 09:01:29 | 反復と忘却

予備校を出るとベレー帽の女が立っていた。気づかぬふりをして通り抜けようとすると女は前に立ちふさがった。立ち止まらざるを得なくなった。女は笑っている。三四郎は初めて気が付いた様に「ああ」と言って曖昧に顔をゆがめた。

水道橋の駅の方には曲がらずに神保町のほうに歩き出すと彼女も並んで付いてくる。夕暮れ時の人通りの多い白山通りを背の低い彼女はちょこちょこと走るように付いてくる。先ほどの国語の講義で教師があまりにも馬鹿馬鹿しいことをいうので休憩時間に横に座っていた彼女に教師の批評をしたが彼女が大変熱心に感心した様に聞いていたのだ。それっきり忘れていたのだが、その話の続きを聞きたいのだろうか。

彼女と会話をしたのは初めてだが、ベレー帽が教室では前から目立つ存在であった。一緒に歩くと通行人が皆注目するようで落ち着かない気持ちにさせられた。どういうわけか彼女はどこまでも付いてくる気らしい。通行人の好奇心に溢れた視線を避けたかったのかもしれない。近くの薄暗い喫茶店に入った。どちらが誘ったのだろう、と三四郎は思った。知らない間に喫茶店の座席に向かい合って座っていた。きっと、俺が誘ったんだろうな、と三四郎は曖昧に考えた。というのはコーヒーが運ばれてくると「こんな所でなくても良かったのに」と彼女が不満そうに呟いたからである。

そうすると、俺が誘ったということになるのだろうな、と彼は考えた。所謂名曲喫茶という店らしい。クラッシックのレコードが店内を流れている。中の照明はムードを出すためか、静かに音楽を聴けるようにするためか、薄暗い。座席の背もたれは高くて周りの客席はよく見えない。

彼女が「どうしたの、深刻な顔をして」と言ったのが急に耳に飛び込んで来た。彼は彼女の「こんな所に来なくても」という言葉に引っかかって考えていたのだ。注意がおろそかになっていたらしい。彼女がおかしそうにわらっている。三四郎は初めて彼女の顔を正面から見た。

子供の顔の様にお月様の様に丸い。顔色は妙に白い。若いのに白粉でも塗っているのだろうか。香水の匂いが強かった。鼻がサイコロのように四角い。磨き込んだ様に光っている。

「深刻な顔をしていますか」

「ええ、とても。ベートーベンみたいに」

「よくそう言われるんですけどね、なにも考えている訳ではないんですよ。放心状態なんですね。それが深刻に見えるらしい」

三四郎はまだ考えていた。「こんな所に来なくても」と言ったのはどういう意味だろう。彼女に聞けばいいのだが、なにか本能的にそれは危険だと彼のこころに告げるものがあった。

 


カフカとドストエフスキーにおける「父」の変換語

2016-10-02 08:24:28 | カフカ

「父」はカフカの場合いうまでもなく体罰の執行者(審判)であり、不可侵、不可越な壁(城)であり、追放者(アメリカあるいは失踪者)である。

彼の場合、社会や国家とか組織は父のイメージを仮託したものであり、評論家達の定説になっているような物語の対象ではない。変身でもいわゆる不条理は「父」を表していると見るべきだろう。

カフカには未送達の遺稿メモに「父への手紙」というのがある。

ドスト作品には「悪霊」まで父が出てこない。そこで初めて「育児放棄者」として「父」が出てくる。後期長編群個々で見ると;

罪と罰:全く出てこない

白痴:幼時に死別(だったかな、ようするに未出)

悪霊:戯画化されたオールド・リベラリストとしての育児放棄者

   成人してテロリストとなった息子とパトロネスの家で再会する。

未成年:育児放棄者、成人してから息子と再開

カラマーゾフの兄弟:

   父は育児放棄者である。物語では成人した息子達と再開して物語が進展

 

育児放棄と子殺しは実質的に同じであるから、父がある程度の役割を果たしている作品では父は同じ扱いである。

よくカラマーゾフは父殺しのミステリーであるというが間違いである。フョードル(だったけ)殺しは物語のアヤにすぎない。

 


カフカ「城」 池内訳 >>> 前田訳

2016-10-01 06:52:07 | カフカ

 さて、前日話したカフカの「城」の翻訳であるが、池内訳を10ページほど読んだ。読んだ箇所は池内訳20章「オルガの計画」である。ちなみにこのくだりは新潮文庫前田訳では第15章になっている。

絶対比較はできないが、相対比較では比較にならないほど池内訳の方が良い。絶対比較するならドイツ語の原文にあたらなければならないし、第一、ベースになるテキストが明らかに違う(章分けを見ても明らかな様に)からテキスト・クリティークにまで踏み込まなければならない。本書評の範囲外となる。

前田訳は日本語としてもおかしいという箇所を三カ所ほど指摘したが、会話の女言葉の取扱が前田では妙だ。たとえば、「オルガの計画」であるが、ここ以外でも「城」のなかでKと女の会話は、会話というよりも長いモノローグの羅列と言った方が良いところが圧倒的に多い。

前田訳はほとんどの語尾に「ですわ」などの女言葉を使っている。猛烈な違和感がある。池内訳では女性的結語は最小限に抑えている。正解はこちらだろう。言葉に対するセンスの問題なのだろうが。

話は違うがカフカの「変身」は結局二、三度読んだが私は読み終わると本を捨ててしまうので読み直すときは買い直した。それで何人かの違う訳で読んだのだが、訳者の違いによる違和感は無かった。だが、この「城」は前田と池内では全然印象が違う。

それぞれに後書きが付いているがこの文章にも歴然とした差が出ている。

ま、どうでも良いことだが変身でも審判でもKは勤め人(今の言葉で言えばサラリーマン、週刊誌言葉で美化すればビジネスマン)なのに、城では測量士*だ。そして彼の仕事ぶりとかは全然出てこない。城が仕事をくれないのだから、当たり前ではあるが。カフカの長編では『失踪者(アメリカ)』というのがあるらしい。この主人公は15(6、7)歳らしい。池内訳で読んでみようかなという気になった。

なお、彼の短編、中編であるが、変身以外にいくつか読んだが感心した物は一つもなかった。

私も過去に必要上1、2度日本の測量士と接触したことがあるが、かれらは土方とインテリの中間という印象であった。知的仕事ではあるが、仕事の現場は土方と異ならない。カフカも役所勤めの間に測量士と接触した経験があるのかな、それが反映しているのかな。