元亀3年(1572)12月、現・浜松市北区の三方原(根洗地区)で、武田信玄(軍勢2万5千)と徳川家康(軍勢1万8千=援軍含む)との「三方ヶ原の戦い」が行われました。戦いは夕刻近い頃から始まりましたが、家康は惨敗。総崩れとなって浜松城に逃げ帰りました。
その古戦場跡を記す碑が三方原町の国道257号線沿いの三方原墓園の一角に建てられています。(上の小画像)
そこには、大きな石に「場戦古原方三」と逆文字(右から左へ)で刻まれた碑が立ち、古戦場跡である説明文の立札が立っています。

(碑の前に立つ説明文の立札。その左奥に碑があります。)

(逆文字で書かれた古戦場の碑と、三方ヶ原の戦いが行われた場所の説明絵図(地図))
※ 三方ヶ原の戦いの時点では、徳川四天王の一人となった「おんな城主 直虎」が後見をした直親の子「虎松」(後の直政)は、家康には出会っていないため、その活躍はありません。
この地は土地が赤土で農耕に適さなかったことから、開発が遅れたようでしたが、明治初年に、三方原開拓の恩人と言われる 間宮鉄次郎氏が士族800人の代表として入植し、この地で茶園開拓を成功させたとあります。
近くに間宮氏の大きな石碑も建ち、祀られていました。

(間宮氏の碑と、活躍を記した立札)
また、三方原古戦場の碑は、浜松市が造成した大規模な「三方原墓園」の北東の一角にあり、この大規模墓園が目に付きますので、その一部も併せてご紹介します。(駐車場260台分整備)

(墓園の銘板とみその橋風景)

(納骨堂と、墓苑の一部)
その古戦場跡を記す碑が三方原町の国道257号線沿いの三方原墓園の一角に建てられています。(上の小画像)
そこには、大きな石に「場戦古原方三」と逆文字(右から左へ)で刻まれた碑が立ち、古戦場跡である説明文の立札が立っています。


(碑の前に立つ説明文の立札。その左奥に碑があります。)


(逆文字で書かれた古戦場の碑と、三方ヶ原の戦いが行われた場所の説明絵図(地図))
※ 三方ヶ原の戦いの時点では、徳川四天王の一人となった「おんな城主 直虎」が後見をした直親の子「虎松」(後の直政)は、家康には出会っていないため、その活躍はありません。
この地は土地が赤土で農耕に適さなかったことから、開発が遅れたようでしたが、明治初年に、三方原開拓の恩人と言われる 間宮鉄次郎氏が士族800人の代表として入植し、この地で茶園開拓を成功させたとあります。
近くに間宮氏の大きな石碑も建ち、祀られていました。


(間宮氏の碑と、活躍を記した立札)
また、三方原古戦場の碑は、浜松市が造成した大規模な「三方原墓園」の北東の一角にあり、この大規模墓園が目に付きますので、その一部も併せてご紹介します。(駐車場260台分整備)

(墓園の銘板とみその橋風景)

(納骨堂と、墓苑の一部)